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小学生の時のこと

私は子供の頃から、発想が人と違うと言われてきました。
個性を伸ばす類の知育塾や美術塾には通ったことありません。きっと先天的に他の人とは少し違う感性を持っているのだと思います。

幼少の頃から小5で転校するまで、私は絵を描くのが大好きでした。周りの人にも褒められていました。

幼稚園の時は、幼稚園併設のお絵かきクラブにスカウトされて、特待生で月謝なしで通っていました。

入学したのは田舎の普通の公立小学校ですが、少しユニークな学校でした。
今では考えられないと思いますが、子供の才能を伸ばすための特別扱いを躊躇しなかったようです。

1~2年生の時、担任の先生に頼まれて、休み時間に絵を描いていました。これは私の美術の才能を伸ばすための特別レッスンだったらしいです。
視点と色使いを褒められることが多かったと思います。お題だけ出されて、自由に心のままに好きなものを描いて、先生にあげていました。

3~4年生の時は、絵のレッスン以外に読書感想文の別宿題を出されるようになりました。先生から「これを読んで感想を聞かせて」と本を渡されるのです。感想を聞かせて=感想文を書く。これは文章力を磨くための特別レッスンでした。

どちらも「先生に頼まれて」というのが大きなポイントだと思います。子供心に頼りにされてるのが嬉しくて、やらされているという気持ちは全くなく、楽しく描(書)いていました。今思えば休み時間が潰れているのですが、当時は全く気になりませんでした。絵を描くのも、本を読むのも、文章を書くのも好きだったので、遊びの延長でした。

これが特別扱いだったことを知ったのは成人してからです。母から言われるまで知りませんでした。「私が得意なことだから先生に頼まれてた」という感覚しかありませんでした。

どちらも何を描(書)いても否定されたことはなく、まずは「とても良い」と褒めてもらえました。かなり大きなリアクションで喜んでもらえました。その後、修正箇所のアドバイスをもらって次に活かすというレッスンでした。

必ず褒めてもらえるので嬉しかったのを覚えてます。上達したという意識は皆無でした。「私が得意だから先生に頼まれている」と思っていて、そもそも上手になるために描(書)いていません。先生の依頼に応えられたことが嬉しくて、もっと喜んで欲しいから、自ら進んで先生に言われたことを思い出していました。

小3からは合奏部に所属してバイオリンを弾いていたので、クラシック音楽も日常にありました。合奏部には兄が既に所属していて、兄がいるから当然入るものという感じで誘われて、 面白そうだったから入部しました。

両親には1年生から、お習字に通わせてもらいました。これは5年生の時に転校するまで続けました。

こうして振り返ると、意識することなく遊びの延長で芸術に触れる環境だったみたいです。私にとっては当たり前のことだったので客観的に考えたことがありませんでしたが、繋げてみると、小学生の割には芸術との距離が近かったかもしれません。

転校前の小学校は当時、全国吹奏楽コンクールの常連校でした。コンクールには5・6年生しか参加できなかったので私は出ていませんが、そういう校風が私に合っていたと思います。

この生活は、転校を機に一変しました。

転校した学校では私の感性は全く認められませんでした。絵を描く度に悉く否定されました。構図がおかしい、色がおかしいと言われて何度もやり直し。何が悪いか分からず、私なりに頑張っても、また変な絵を描いたと怒られて全否定された気持ちになりました。それまで100点だったものが0点になってしまって驚きました。

写生大会で公園に行って、画用紙からはみ出すほど大きくタンポポを描くような子供だったから仕方ないかもしれない、と今なら理解できます。先生が描かせたかったのは公園の風景だと、今なら分かります。
ですが、当時の私は、心惹かれたものを心のままに描くものだと思ってたので、とても困惑しました。

6年生の時。いつも通り水彩画の色がダメだと否定されて、水道で画用紙を洗って絵の具を流すように指示されました。そこまで言われたのは初めてだったので、言葉に出来ないくらいショックでした。

ショックと悔しさで涙が出ましたが、流水で絵の具を流しながら「紙って洗えるんだ」と妙に冷めた気持ちになりました。そして「先生が望んだもの以外は0点」だと気付きました。その時、頭と胸の辺りで何かがすーっと冷えながら下がった感覚があって、絵に対する楽しさが消えました。今でもハッキリ覚えています。

それが私の人生初の挫折だと自覚しています。転校するまで、私は芸術の道に進むだろうと言われていました。私もそのつもりでした。好きだったものが大嫌いになった時の感覚は、思い出すと今でも涙が出てきます。

でも悔しかったし納得できないので、同じ絵を描いて提出しました。当然かなり怒られましたが、もう絵を描くのが好きじゃないので、どうでもよくなりました。今なら問題になりそうな罵詈雑言を浴びましたが、ものすごく冷めてしまって、どうでもいいやと聞き流せました。

あの時、転校前の小学校で認めてもらえたことが心の支えでした。私は悪くないと思えました。「100点が0点になるのはおかしい。これは私のせいではなく評価する側の問題だ」と。
これが大人に疑問を持った最初で最大のきっかけです。

その後は私だけ細かくチェックされるようになりました。毎回どこにどの色を塗るか、先生に確認するように言われました。色を作って先生に見せて、OKが出たら塗る。構図は友達のを見せてもらって真似していました。
大好きだった図画の授業は、苦痛な作業時間になってしまいました。

文章の方は評価は高めでした。音楽は担当楽器を変えて続けました。

転校前の特別レッスンは発想を伸ばす教育といえるか分かりませんが、私にはかなり深く浸透してると思います。

芸術に触れるための素地を整えてくれただけでなく、あの特別扱いがあったから転校先の担任に屈しないでいられたし、大人への疑問がうまれて中2の決意に、そして今の活動にも繋がっています。