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『分かり合う』ということ

私は『他人とは分かりあえない』『他人の気持ちは分からなくて当然』と思っています。それが人間関係の大前提です。

分かりあえないのが当然という状態からスタートするから、分かり合える人をとても大切に思います。

もし分かり合えなくても、それが自然の状態だと思うので、相手を責めたり攻撃する必要がありません。

他人の気持ちは分からなくて当然だから、分かるために相手のことをよく観察して理解しようと思います。

もちろんお互い様なので、私の気持ちを他人が分からなくてもそれは自然なことです。分かってもらえたら嬉しいけれど、分かってもらえなくても仕方ないと思います。

私は『分かり合える人』を大切するだけです。

『分かり合える人』の基準は人によって違うので、自分の好みが明確でないと抽象的に感じるかもしれません。

私は基準は「リスペクト」です。
私からだけでなく、相手からもそれを感じるか。
それが互いに心地よいものか。

私からの一方的なリスペクトは「憧れ」ですよね。分かり合っているとは言わないと思います。

私は友人から「肩書き:妹」と呼ばれるほど、老若男女問わず妹扱いされることがあるのですが、それも分かり合っているとは言えません。好意はありがたいですが、私はお世話を焼かれるのが好きではないので。
だけど双方がそういう距離感を好むなら、互いに大切にし合えると思います。その場合、その2人にとって互いは『分かり合える人』ということです。

互いにリスペクトして、その距離感が心地よい相手を「友達」と呼ぶのだと考えています。友達を大切にするのは当然のことですよね。
友達以外の人が自分を理解してくれないからといって、相手を攻撃するのは筋が通りません。分かり合えないから友達になれていないのですから。

なぜか社会では「分かって当然」という前提ですよね。それがとても不思議です。

人間関係は0からのスタートが理想だと思います。「分かって当然」は0スタートではありません。先に勝手な「期待値」があります。そんな期待値は、他者には無関係のものです。

期待値の正体は「察して文化」だと考えています。

こちらから主体的に「察する」のは優しさの表れなので、それは良いことだと思いますが、「相手が察するのが当然」という前提を持っている人が多いような気がしませんか?

「私はあなたの心情を察しているのだから、あなたも私の心情を当然に察するべき」という風潮を感じます。

ですが私は、察してるのはそちらの勝手では?と思います。私が相手を察するのは私の勝手なので、相手にそれは求めません。

相手に求めていないから、分かってもらえると嬉しくなって、仲良くなりたいと思うのです。「期待値のない状態=0」から好感度が10に上がるイメージです。

「分かってもらって当然」と考えていると、分かり合えない時に、10から0への減点になります。その減点が攻撃になる。あなたはダメだとか、こんなことも分からないのか、とか。

勝手に期待して、勝手に失望して、一方的に攻撃する。
私から見ると「あの人は1人で何をしてるんだろう?」という感じです。

私は伝えたいことを1回で分かってもらえることが少ないので、それが前提です。私がすぐに分かってもらえないように、私も相手のことをすぐには分からないだろうと。だから『人は分かり合えない』と考えています。

直感的な相性というものはあると思います。それでも、すぐに相手を理解したつもりになるのは、きっと思慮が浅いか傲慢かのどちらかだと思います。

どんなに仲が良くても、仲が深まるごとに新しい発見があります。なのに付き合いの浅い相手に対して「分かって当然」という前提を持つのは、変だと思いませんか?

期待値も先入観もないフラットな状態で出会えた『分かり合える人』を大切にして、分かり合えない人とは相応の距離をとれば、軋轢の少ない楽しい人生を過ごせると思います。