見出し画像

色眼鏡の正体と解消法

目立つ経歴、目立つ容姿など平均から大きく乖離した個性を持っていると、色眼鏡で見られてしまい誤解されることがあります。

「頭がいい人は、きっとこうだろう」「顔がいい人は、きっとこうだろう」という色眼鏡。理系は云々、美人は云々という言説を誰でもご存知だと思います。

それはそのカテゴリに属する側にとっては非常に厄介な決め付けです。
「色眼鏡を通した評価」は、良い評価も悪い評価も、当人にとってはどちらも「誤解されている」と感じると思います。

私は子供の頃から思考が他の人と少し違っていて、変わり者と言われてきました。

好意的に受け入れられた場合は、何を言っても、どんなに真剣に訴えても「また面白いこと言ってる」と楽しまれてしまって、言いたいことが伝わらないことが多かった。

悪いものとされた場合は、「一般的に皆が思う事は当然わかっていて、あえて違うことを言っている」と決め付けられて、いい子ぶってる、反抗的、計算高い、性格悪い、と様々な不評を受けました。

私は"普通"にしているだけなのに評価の振れ幅が極端で、非常に困惑しました。

どちらも共通してるのは、私を変わり者という色眼鏡で見ているということでした。

この色眼鏡の正体は、偏見と先入観です。

以前 "「普通」という価値観について" という記事に、「対象が同じでも受け手の個性によって評価が分かれる」と書きました。
個性と色眼鏡は密接な関わりがあると考えています。
先天的な個性によって、後天的な偏見や先入観が無意識のうちに出来上がるのだろうと。

偏見と先入観は本質を見る目を曇らせてしまうので無い方が望ましいのですが、無意識に培われてしまうものを根絶するのは困難です。知らず知らずのうちに誰でも少なからず持っているものでしょう。私も含めて。

偏見や先入観は「あるもの」として受け入れた方が良いと思います。その上で「自分が偏見や先入観を持っている」という事実を意識すれば良いのではないでしょうか。

誰かに対して、(その人以外の人には感じない類の)好意や嫌悪の感情を持った時、その感情の源を見つめるのは大切なことだと思います。

対象の人への好意や嫌悪の感情を持つ前に、きちんと相手を一人の人間として見ているか。過度に崇拝したり、逆に見下したりしていないか。自分が相手に抱いた感情を、自分自身が他者から向けられたらどう感じるか。
それを意識するだけで相手の本質に近づけると思います。

その人は好きでその個性を持って生まれたわけではないのです。それは誰でも同じです。どんなに平均から乖離した個性を持っていても、その人も人間だということを忘れないで欲しいと思います。