「可哀想な人が好き」という恋愛癖について理由を考察してみた
可哀想な人が好きだよな〜と昔から思っていた。
可哀想な人が好き、に対して今までさして深く考えてこなかったものの、一言で可哀想な人が好き、というのも、これに集約された意味合いの全てに、私の好みが集約されているのかの確信はなかった。
ふいに気になって、一度気になると掘り下げたくなってきたので、色々調べた中で、結構しっかりめの自分なりの考察まとめてみました。
「可哀想な人が好き」の始まり
一番初めに可哀想な人を好きだと思ったのは、小学生の時に見た「結界師」のキャラクター「志々尾限」。
「志々尾限」は、半妖怪で家族から忌み嫌われ孤独で、唯一の味方である姉を悲しみの末、自我を忘れて傷つけてしまう(物理)というキャラクターなんだけど、
ネタバレをすると、ようやく仲間に心を開き始めた段階で殺されてしまうところが、さらに可哀想なキャラクターで、その時に「悲しい!可哀想すぎる!好きだ!」と思ったのを覚えている。
家族に嫌われている地点で可哀想で好きだったけど、殺されてより好きになった。
その次は「誰かが私にキスをした」という映画の松山ケンイチが演じていたキャラクター。
精神疾患持ちの病弱な男性で、正直ストーリーはあまり覚えていないけれど、結局主人公に選ばれなかったところがさらに可哀想だった。
その後も私は創作、現実共に「可哀想」が大好きだった。
全然興味がなかった人やキャラクターがいきなり可哀想になってきて好きになることもあった。
「可哀想な人が好き」以外である可能性
パターン①特殊なバックグラウンドに面白がって興味を抱いている
確かに、「スキップ大会世界王者です」とか言われると、なにそれ!?と単に好奇心をくすぐられて興味を持つことは多い。
だけどそこで、友達になろう!とはなっても、好きだ!とはならない。
その内容が「大会王者」の地点で、その先でその人がいかに可哀想な目に遭おうとも、その人のメンタリティがそもそも可哀想ではないので、好きだ!とはならないように思う。
パターン②単に性格が暗い人が好き
「自分はこういう可哀想なところがあって…」とネガティブに話された場合はどうだろう。
これまた違う感じがする。
可哀想な状況をペラペラ話されてしまうと萎える。
パターン③秘密主義者が好き
その節はまああるだろう。
明かされていない分掘り起こしたくなるのはある。
しかし、掘り起こした先に何があって欲しいかと問われるとやはり「可哀想」であって欲しい。
秘密主義者で明るい部分を隠す人を経験上見たことはない。
なぜ可哀想な人を好きと思うのか
私なりに考察をしてみた。
理由は以下の通りとなる。
可哀想と思った時に胸がぎゅ〜となる感覚を、恋のキュンみたいなやつだと勘違いしている
相手が可哀想という条件下において、自分が優位に立ち優越感に浸りたい
可哀想である相手に尽くすことで、自分が役に立つ人間だと自己肯定したい
ひとつずつ、解説をしていこう。
①可哀想と思った時に胸がぎゅ〜となる感覚を、恋のキュンみたいなやつだと勘違いしている
これについては、個人的に結構納得している。
悲恋ものの創作でボロボロ泣いたあとに、この作品好きだ〜〜となる感覚に近い。
心が動いた、という部分に関して相違はないため、「心を動かされてしまった、好きなのかもしれない」となる流れはわりと腑に落ちる部分がある。
ただ、「可哀想だ……胸が締め付けられる…」という想いと、「好きだ……胸が締め付けられる…」という想いにいかほど感覚的違いがあるのかは全然分かっていない。
吊り橋効果的な、「怖い……ドキドキしてきた…」というのと、「好きだ……ドキドキする…」というのがごっちゃになる感じと、大差ない話のような気がする。
明確に違いが分かる人がいたら是非教えてほしい。
②「相手が可哀想という条件下において、自分が優位に立ち優越感に浸りたい」
相手が可哀想である、という条件があれば、確実に自分が優位に立てる、その優位性に満足感を得ている説がある。
自分に対して自信がないために、自分より可哀想な人を相手どることで、あらゆる物事を優位に先行していきたいと考えているのかもしれない。
そもそも論として、女性である私は男性の物理的力に勝つことができない。
暴力性を持った人間が恐ろしいのは人類の全てに当てはまる気はしているが、可哀想な人間である場合、自分に対して牙を剥かないで、飼い慣らせそうな雰囲気がある。
自信のなさからくる恐怖心の強さが、可哀想な人を相手どることで優位に立ち、安全感覚を保有したいという気持ちにさせているのかもしれない。
③可哀想である相手に尽くすことで、自分が役に立つ人間だと自己肯定したい
正直一番最初に、誰もが思いつく理由がこれである気がする。
尽くしたがりというか、世話焼きたい人間というのは一定数存在する。
ダメンズウォーカー的なことである。
しかし、この尽くしたがり、みたいなのはどうも自分の性質として、ニュアンスが違う気がしてならない。
尽くしたいというより、「俺がやったる!守ったるわ!」的な漢気ニュアンスが自分的にはしっくりきている。
ヒーロー願望がある男性が、か弱い女性に対して、ヒーロームーブをすることで、「役に立つ人間なんだ俺は!」と自己肯定を高めていく過程を好んでいる、という感じ。
これに関して私は、性差なくこのムーブをしたがる節は、確かにあるように思う。
褒められたい、好かれたい、という想いも少なからずあるが、それよりも「ヒーローぶりだい!」という自分的都合による、自己満足が上回っている。
時にこれはありがた迷惑であり、重たい行動になり得るという自覚はあるので、実際には相手の意向に沿う形になるけれど、「言ったろか?やったろか?私が」という気持ちは、確かに存在している。
さらに調べていくと、こういうのを「自己優位型ナルシズム」「恋愛障害」などと呼ぶことがあるらしい。
いきなり異常者扱いされてしまって戸惑ってしまうが、一旦受け入れることにする。
この感覚になる根本的原因はどこにあるのか
精神的な問題に対していつも持ち出されるのは、幼少期の経験記憶。
幼少期の経験記憶は基本的に個体の人格形成に大きな影響を及ぼすとされている。
考えられる物事としてはこれになる。
「自身が親に対して過剰な扱いを受けてきたことで、心配して手を尽くしてあげることが愛だという風に無意識下で定義づけられている」
つまり
「可哀想だね…可哀想に…私がなんとかしてあげる!」と言ったパターンを愛情だと認識しているが故に、可哀想だ…と思った時に、「可哀想だ」と感じたということは「愛」じゃないか!?という誤認が生じている説である。
あまりに飛躍した話にも思えるが、あながちあり得ない話でもない。
可哀想だ→胸が締め付けられる→守ってあげたい安全な存在→役に立ちたい→愛かもしれない
こういう構図になっていると考えれば、なるほど理解出来ないでもない精神構造である。
この感覚を異常性と捉えるのか、理解出来ると捉えるのかは人によるとは思うし、実際のところ「好み」という一言で片付けてしまうとそうなんだろうけど、
「可哀想なところが好き」「可哀想な人が好き」と要約してしまうとかなり異常に見えるし、言われた側も複雑な思いを抱いてしまうかもしれない。
ここでひとつの疑問。
可哀想じゃなくなったら、どうなる?
私としての解答はこうである。
可哀想じゃないから、私を必要としていない。つまり、私を愛さない存在になったという認識になる。
やっぱりこの感覚は我ながら、おかしいのかもしれない。
願わくば「可哀想じゃないけど、君のことがまだ必要だし、これからも必要だ」と言ってほしい。
言って欲しいけど、結局のところ可哀想な人は自分のことで精一杯なので、実際にそうなることが多い。
それって愛されているわけではないのかもしれない。
そもそもが、不安の捌け口にされているだけなのかもしれない。
やっぱり可哀想な人は極悪かもしれない。
愛とは