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賞レースは世のため人のためですよ

例によって賞レースの決勝を前にテンションが上っているわけである。しかしこんなふうにテンションが上がるたびに考えることと言えば、別に賞レースの結果がどうなろうと、僕というお笑いファン個人にとって何かしらの影響があるわけではないということだ。

言うまでもなく、出場する芸人にとって賞レースの影響は大きい。昨日までバイトで汗水を垂らしていた人間が翌日にメディア各局で花束を受け取っている姿なんかは、賞レースの舞台裏を描くドキュメンタリーなどでしばしば描かれる内容だ。その様子を見て歓喜するファンも多いことだろう。だが、僕にとって芸人がバイトを辞めて芸事で生活できること自体はどうでもいいことである。何故ならばバイトを辞めたことによって芸事のレベルが向上する例を見たことがないためだ。何らかのパフォーマンスを発揮することを生業とする人は「金銭的な余裕が出たことにより体力的にもスケジュール的にも負担が減ってパフォーマンスの質が向上しました」と語ることが一般的だが、不思議なことに芸人はその例が当てはまらないケースも多い。ある程度のレベルに達している芸人は、例え収入の大半がバイトによるものであっても、テレビスターに匹敵するほど(あるいは、時にそれを遥かに上回るほど)面白いのである。

あるいは、賞レースで結果を残すことによって社会的信頼を得るとか、一般への認知が広がるという点に注目する人もいるだろう。しかし僕はこれにも大した興味がない。理由は先に述べた内容と同一だ。そんなものは必ずしも重要ではない。

もちろん、僕のような愚鈍な観客が気づいていないだけで、実際はバイトも信頼も認知もパフォーマンスに何らかの影響を与えているのかもしれない。笑いのため、あえてそういった影響の因果関係を隠している芸人もいることだろう。だがあくまでも客席から見る限り、仮にそのような要因があったとしても、影響はごく微細なものであるように思える。残念ながら全てが、「売れてない芸人も面白い」というシンプルな事実に覆い隠されるのだ。

さて、僕は何をモチベーションとして賞レースに熱狂するのか。

見過ごせない事実として、一般的に賞レースの決勝は世間の注目を集めるテレビ番組であるということが挙げられる。同じネタ番組とはいえ、『ネタパレ』や『マイナビ Laughter Night』とは視聴する人数や観劇の集中具合がまるで違う。賞レースの決勝があった翌日は、小学生がサビで縄跳びを跳ばなかったり音符を運んだりしながら通学する様子をしばしば見かける。終わってる上司が背後から肩を叩きながら「ダメー」と言ってくる。これが賞レース決勝の効果だ。

別に、小学生や中年に浸透することを良しとしているわけではない。小学生や中年とは、社会を構成する要素の一例だ。彼らに浸透するということは、すなわち社会に浸透するということである。

僕は、ネタとは芸人にとって意識そのものの具現化であると考えている(もちろん、ネタの中で語られる内容がそっくりそのまま芸人本人の主張であると言いたいわけではない。ネタとは芸人の抱える規範をコメディの形に落とし込んだものに過ぎない。この「落とし込み」の過程の中で、規範は拡張されたり矮小化されたり、もしくは正反対の内容になったりするだろう。あるいは、そのネタをどんな場で/誰の前で/どのように演ずるかという行為自体が規範の発現になり得ることもある)。だからこそネタや、あるいはネタで注目を浴びた後の振る舞いが社会に浸透するということは、芸人の意識そのものが浸透することにほかならない。

よく聞く真偽不明の言説として「『サブい』や『スベる』などは松本人志が発明した(流行らせた)言葉である。だから松本は日本をダメにした」というものがある。日本をダメにしたか否かの議論はさておき、この言説が本当だとしたら松本は自身の考え方を流通させることで半ば社会をジャックすることに成功したと言える。当時のお笑いファンのうち、松本の考え方に同調していた者はこの浸透をどこか面映ゆい気持ちで肯定したことだろう。なにしろ自らが良しとする意識そのものが社会にインストールされ、その後における前提知識となったのだから。

このように、しばしばお笑いファンは同調する芸人を見つけ、その存在が社会に浸透することで密かな喜びを覚えることがある。芸人は何らかの思想を社会に発信するための依代になり得るのだ。そしてこの形で発信された思想は、例えば映画に何らかのテーマを込めることであるとか、デモ行進で主張を叫ぶことなんかに比べ、時にあっさりとのどごし良く社会に取り入れられる。何故ならば、先に述べたように、芸人の意識の発現は通学路/職場/あるいはその他環境においてコミュニケーションの瞬間に橋渡しを担うからだ。

だからこそ思うのは、賞レースは世のため人のためにあってほしいということである。更に言うならば、そう、社会を良くするネタの芸人が活躍してくれればこれほど望ましいことはない。

こう書くと、何か政治的なテーマのネタをやる、あるいはそういったバックグラウンドの芸人が活躍することを期待しているのだと捉える人がいるかもしれない。それもある種の正解ではある。だが、そもそも賞レースの決勝は「誰が、どんな内容であろうとも」社会に影響を与える瞬間になり得る。僕らは東京03が鋭く日常を切り取ることも、濱田祐太郎が視覚障害者であることも、あるいはハリウッドザコシショウが狂人そのものであることにも影響を受けた。告白の時にハーモニカを使うべきではないとか、困ったら笑うという選択肢があるとか、「誇張しすぎた古畑任三郎をやります」と言った瞬間に待ってましたとばかりに歓声が上がる瞬間がテレビに起こり得るのだと知ったはずだ。だからこそ政治的であることは、決して必要条件ではないのだ。

前述の通り、ある程度のレベルに達している場合は、売れていない芸人も誰もが面白い。言うまでもなく賞レースは技術を競う大会なのだが、この際に重要なことは、より社会に歪みを残してくれる芸人の発露である。僕が望むらくは強烈な悪性の発揮だ。視聴者が自分の心の中に持っていた、言語化はもちろん認知すらできなかった醜悪な部分を暴き出し「今日までの自分の判断基準は間違っていたんじゃないか」と思わせるようなネタが見たい。そういうものを社会に解き放ってしまう危険性にゾクゾクしている芸人がゴールデンタイムのメディアをハックする瞬間に立ち会いたいと思う。

まあ、少なくとも僕が知る限り、お笑いの賞レースが開催されたことによって社会が悪い方向に進んだというケースは見当たらない。誰が勝とうが社会は良くなる。あとは進む方向と速度だけが気になるので、それを自分の目で確かめるために熱狂して賞レースを見るのである。大丈夫、明日の今頃にはこのクソ社会も少しはいい方向に進み始めていますよ。

<志村貴子『敷居の住人』6巻P16-17より。理屈で考えれば、絶対にむーちゃん(他の男)と付き合ったほうが良いと説得されるのだが、それでもミドリちゃんが好きなので割り切れないキクチナナコ。哀れミドリちゃんに首を絞められるキクチナナコだが、それでもミドリちゃんのほうが好きである。俺の最も好きな漫画の、最も好きな回の、2番目に好きなページと3番目に好きなページ。>

<ヘッダーは志村貴子『敷居の住人』6巻P15より。俺の最も好きな漫画の、最も好きな回の、最も好きなページの、最も好きなコマ。>

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