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大鶴肥満はなぜMちゃんをまーごめしなかったのか/劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ

1月30日、北沢タウンホールにて『劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ』が開催された。これは、サンミュージックプロダクション所属のお笑いコンビ・ママタルトのメンバーである大鶴肥満を追ったドキュメンタリーを上映し、その模様をお笑いコンビ・真空ジェシカとママタルトがツッコミを入れながら観客とともに鑑賞するというライブである。しかし、当日上映された作品は『M-1アナザーストーリー』に代表される一般的なお笑い芸人のドキュメンタリーとは異なり、下積みの苦労やメディアでの成功などを感動的に取り上げるものではなかった。

奇妙なことに、本作はママタルト大鶴肥満のギャグ「まーごめ」とは何なのかを追求するという内容となっている。以下に、チケットの販売サイトに記載されたライブ概要を引用する。

ママタルトのライブ「劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ」が1月30日(日)に東京・北沢タウンホールで開催され、有料配信も行われる。

「まーごめ」とは何なのか?大鶴肥満が誘うまーごめの全貌を解き明かすためのドキュメンタリー映像を撮影。
大鶴肥満のこれまでの軌跡を描いたVTRを通してまーごめの真髄に迫ろうという目論み。ドキュメンタリーの中には、真空ジェシカ、サツマカワRPG、さすらいラビー、ストレッチーズ、ひつじねいり細田など親交の深い仲間のインタビューも。

LivePocket -Ticket-『劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ』

しかし、実際に本作において「まーごめとは何か?」について語られる場面は(言葉通りの意味ならば)少ない。そもそもまーごめという単語が登場する機会が極めて少ない。本編における時間のほとんどは、①大鶴肥満の生い立ちと家族関係 ②大鶴肥満がマッチングアプリで知り合った女性との恋 ③粕谷明弘が大鶴肥満を名乗り、ママタルトを結成して活躍するまでの経緯 といった内容で占められている。さらに言うならば、「まーごめとは何なのか」は、はっきりと語られないまま本作は終了する。

だが、一見すると関係のないこれらの事象こそが、まーごめとは何なのかを暗に物語っているといっても過言ではない。重要なのは、まーごめとまーごめの中から垣間見えるほんの僅かな光である。

(以下、上映されたドキュメンタリー作品を『まードキュ』、ドキュメンタリー作品を上映したライブを『まーごめ180キロ』と記載する)

まーごめの万能性

さて、本編の説明を始める前に、まーごめの万能性について語らなくてはいけない。東京お笑いライブシーンに親しみのある方にとってすれば言うまでもないことだが、まーごめは古今例を見ないほどに万能な言葉である。そもそもは大鶴義丹の不倫謝罪会見に端を発するこの言葉だが、今日においてはその枠組みを遥かに超え、あらゆる言葉の代用語としての地位を(お笑いファンの間だけで)築いている。

なぜ、これほどまでまーごめが浸透したのか。それは、言葉そのものが持つ理不尽な可笑しさによるものが大きいと考えられる。「なぜ、モノマネの元ネタが不倫謝罪会見で言った言葉を決めゼリフにするのか」「なぜ、省略するのか」「なぜ、他の言葉の代用として使ってもなんとなく意味が伝わるのか」など、様々な理不尽さがお笑いというカルチャーにマッチしたことが大きく影響している。さらに、省略したことによる発語し易さの向上(および意味不明さの向上)が効果に拍車をかけていることも間違いないだろう。

しかし、この複雑なバックグラウンドが原因してか、まーごめという言葉はお笑いファンにのみ浸透し、その外部である一般社会には届いていないのも実情である。宮台真司が定義するところのまーごめが島宇宙化している状態であるといえる。しかし、このギャップこそが『まードキュ』の深淵を浮かび上がらせることになる。

まーごめと言わない大鶴肥満

『まードキュ』冒頭には、狭い歩道で通行人にぶつかることを気にして、大鶴肥満がカニ歩きで移動するシーンがある。スタッフから「あまり幅が変わらない」と指摘された大鶴肥満は「失敬失敬 ほんと まーごめでございますねそれは」とおどけて見せる。

一見しただけでは、まーごめの実用例を紹介しながら単にコメディ的要素を見せるシーンが挿入されているようにしか思えない。しかし、「大鶴肥満は普段の会話でこのようにまーごめと言っているんですよ」と作中で具体的に示したことが、以降のシーンに重くのしかかってくる。

『まードキュ』は5つのパートを連続で見せる作品である。このシーンを含む第1パートを最後に、まーごめという言葉は(会話の中で、普段どおりの用法では)しばらく作中に登場しない。

大鶴肥満はなぜ同級生をまーごめしなかったのか

『まードキュ』中盤では、大鶴肥満が高校時代にいじめられていたエピソードが語られる。しかし、その話をしている最中に大鶴肥満が一切笑みを浮かべない様子が非常に印象に残っている。大鶴肥満は特に3人の同級生に対しコンプレックスを抱いており、その悪行を説明しては「ぶち殺してやろうかな」と憤る。作品上の時間にして約3分間、笑み無しで淡々と怒りを語る。さすがにマズいと思ったのか、最後にはウエストランドの漫才からフレーズを引用して「お笑いは、復讐だよ?」とボケてみせた瞬間、やっと笑顔を見せた。

だが、ふと思う。なぜ大鶴肥満は、同級生の3人に「まーちゃんごめんね」と言おうとしないのだろうか。スタッフに「失敬失敬 ほんと まーごめでございますねそれは」とおどけたように、本当の意味で芸人として生きるのならば、憎い彼らに対してとるべき選択は、まーごめで笑い飛ばすことではないのだろうか。

いや、それは不可能な選択肢である。大鶴肥満が心に深い傷を負った原因に対し、まーごめは通用しない。彼らにとって、大鶴肥満こと粕谷明弘が提供する笑いは、決して愉快なものではないのだ。彼らは大鶴肥満を「あざ笑う」ことはあっても「笑う」ことはないだろう。

さらに言うならばーー。彼らは「大鶴肥満」を知らない。仮に知っていたとしても、親しみを持って把握してはいない。まーごめの成り立ちやお笑いの文化を知らないし、きっと理解しようともしないだろう。そんな相手に対し、まーごめは無力であるということをこのシーンは突きつけている。

大鶴肥満は同級生に対し「早くM-1とかで結果出して、いつか本当に番組で全部名前と住所言ってやろうかなって思ってるから」と語っている。(冗談半分とは言え)本当に「お笑い(で)復讐」と思っているということだろう。

だが、大鶴肥満もママタルトも、少なからずメディアの出演経験がある。もちろん、SNSやYouTubeを使えば、誰でも世界中に情報を発信できる時代だ。別に、知名度が上がらなくても、明日にも同級生を告発できるはずだ。それでも「M-1でとかで結果出して」告発したいと考える理由は、大鶴肥満の胸の中に「お笑いで社会に認められたという背景がなければ、正しい告発にならない」と思う気持ちがあるためではないだろうか。

願わくば、その意欲のままお笑い界を駆け上り、いつか彼らにまーごめの魅力が伝わるよう祈るばかりである。その時こそ、告発ではなくまーごめの面白さで過去を振り切ってくれることを期待したい。

大鶴肥満はなぜ父親をまーごめしなかったのか

続くシーンでは、そんな大鶴肥満の成り上がり願望も通用しない相手が登場する。

実家周辺を案内し、思い出を語っている最中、偶然両親と再開して自宅に招かれる大鶴肥満。予想外の出来事に狼狽するものの、スタッフの勧めもあり自宅で両親と対面することになった。

父親との不仲、というか性格の不一致は、自身のラジオなどで繰り返し語られている内容である。父親は大鶴肥満が芸人になることを強固に反対したという。しかし実際にカメラで記録された父親の語り口は、ラジオで語られる内容を遥かに上回るものだった。

大鶴肥満の父親は、大鶴肥満が芸人として活動することに対し非常に厳しい。もちろん、作中でも大鶴肥満の母親が「私より主人のほうが(大鶴肥満の活動を)熱心に探している」と語っているように実際は愛情の裏返しなのだろう。

しかし大鶴肥満の父親は、母親のフォローが嘘だったかのように「芸能人になるなんて 許せないですね まっとうな社会人にはなれたんだから」「(大鶴肥満の体は)情けない」「早くコロッて死んじゃえばいいんだよね」「みんなに迷惑かけないように死んでください」「ごめんな そんな子どもに育てちゃって。もうちょっと才能がある子どもに育ててあげれば良かったのに」と鋭く大鶴肥満を詰める。ラッシュで畳み掛ける父親のあまりの辛辣さに、『まーごめ180キロ』会場には引き笑いの音が響いた。

やはり思うのは、なぜ大鶴肥満は父親に「まーちゃんごめんね」と言い返さなかったのか、ということだ。2人きりで対面しているわけでもなく、カメラも入っているのだから、「急に芸人モードで素っ頓狂なギャグをかますおかしな息子」という演じ方もできたはずだ。

前述の通り、母親が語るところによると、父親は大鶴肥満の活動を熱心に探しているはずである。そうであるならば、まーごめという言葉の存在も認知しているし、その言葉を使って活躍している姿も見ているだろう。父親は、同級生の3人とは違う。本質的には大鶴肥満の味方であるはずだ。それでもまーごめと言えなかったのは、父が今の大鶴肥満を「芸能人になるなんて 許せないですね」の言葉通り、認めていないからだろう。

推測になるが、たとえママタルトがM-1チャンピオンになったとしても、父親が大鶴肥満のことを認めることはないだろう。父親にとって大鶴肥満に求めるものは「まっとうな社会人」であって、芸人としての地位は関係がない。実際、『まーごめ180キロ』後に公開されたママタルトのラジオでは「(大鶴肥満の)父親はテレビに出ているような芸能人を、放送ではとても言えないような言い方でバカにする」と語っている。

大鶴肥満はなぜMちゃんをまーごめしなかったのか

そして作品は、大鶴肥満の恋愛を追うシークエンスに転換する。過去にマッチングアプリで裸の写真をバラ撒かれたり、中1の夏休みに好きな子へ電話で告白して以降卒業まであだ名がテル(テレフォン)になってしまったりした大鶴肥満は、恋愛に不信感を抱くようになってしまった。また、芸人としてファンと恋愛することは本意ではないらしく、大鶴肥満という存在を認知していない女性と付き合いたいという。

自らに難しい条件を突きつけた大鶴肥満だったが、奇跡的にMちゃんという好みの女性と知り合うことができた。大鶴肥満によると、仮にMちゃんと付き合えた場合は「芸人もアプリのパワプロも全部引退してもいいくらい嬉しい」「青春を取り戻せると思う」と思っているという。途中、Mちゃんから連絡が途絶える時期などもありながらも、デートを重ね、ついに告白の日を迎える。

しかし、告白した結果、フラれてしまう。告白の後にスタッフの前に現れ、どのようにフラれたのかをカメラに向かってつぶさに語る大鶴肥満。「明弘さんは異性として見れないです」と言われた大鶴肥満は、新宿三丁目駅の伊勢丹口で「アーーーッ!!!」と叫び、膝から崩れ落ちたという。

そして、やはり、なぜ大鶴肥満はMちゃんに「まーちゃんごめんね」と言い返さなかったのだろうかと考える。もちろん、大鶴肥満がMちゃんに告白するシーンにはカメラが密着していない。父親の時とは状況が異なる。まーごめと言った所で、その果敢なアプローチを記録するカメラがなければ意味がない、という指摘はもっともだ。だが、本質的な原因はもっと他の部分にあることだろう。

大鶴肥満は、芸人としての自分を認識する女性と食事に行かない(あるいは、その先にある付き合うという行為を拒否する)理由を「ファンである以上、丁重に扱わなければいけないから」と語る。だが、これが本当の理由なのだろうか。

思うに、それは大鶴肥満なりのフェアネスであるのかもしれない。芸人として好かれているというアドバンテージを恋愛に持ち込むのはアンフェアだ、ということだ。あるいは、「大鶴肥満がアドバンテージを持っていなかった頃」、すなわち学生時代と同じ状況で恋愛を成就させなければ「青春を取り戻」すことはできないということかもしれない。いずれにせよ、Mちゃんとの関係性に自ら芸人であることを持ち込まなかった。

Mちゃんの前で芸人であることを拒んだ大鶴肥満にとって、まーごめは最早、自分の武器ですらなかったのだろう。大鶴肥満にも、「まーちゃんごめんね」よりも「アーーーッ!!!」を優先しなければいけない瞬間というものがあるのだ。

大鶴肥満はなぜ彼らをまーごめすることなく今日まで耐えられたのか

Mちゃんにフラれた大鶴肥満は、「大鶴肥満にとって檜原洋平は本当に光ですね」と相方を褒め始める。以前は「Mちゃんと付き合えたら芸人引退してもいい」と言っていたのに。「檜原がいるから俺は突き進むことができるんだって思っています。時々眩しくて見ることができない時もあるけどね」と語る姿は、一見しただけでは、すぐに手のひらを返す軽率な男のように感じられるかも知れない。だが、僕はこのシーンの大鶴肥満に奇妙な納得感すら覚えた。

場面は前後するが、『まードキュ』にはママタルト結成当時のエピソードについても語られる場面がある。学生時代の相方の就職を機に芸人になることを諦めたこと。R-1ぐらんぷりの1回戦を通過して仕事を辞めたこと。キズマシーン主催の大喜利ライブで檜原と出会ったこと。檜原は学生芸人のチャンピオンを経験しており、コンビ結成にプレッシャーを感じたこと。それでも檜原が面白さを認めてくれて、「大鶴肥満を王にしたい」と言ってくれたこと。学生芸人たちの中で決して目立ってはいなかった大鶴肥満が、ママタルトを組んだことにより周囲の信頼を得たこと。そして今となっては、当時の学生芸人たちとしのぎを削る生活を再開できていること……。

大鶴肥満はその流れを【運命で決まってたコンビ】と表現する。僕は、その通りだ、と思う。それは、単に様々な出来事が偶然重なってママタルトの結成が実現したことだけが理由ではない。

大鶴肥満が、同級生の3人にまーごめと言えないのは、まだお笑いで売れていないからだ。じゃあ、どうやって売れるのか?檜原とM-1を勝ち上がって、メディアに出るしか道はない。

大鶴肥満が、父親にまーごめと言えないのは、仮に芸人としての地位が上がったとしても、父親の評価には関係がないからだ。じゃあ、誰に評価されるのか?大喜利ライブで出会った檜原は大鶴肥満の面白さを認めて「王にしたい」と言ってくれた。

大鶴肥満が、Mちゃんにまーごめと言えないのは、恋愛にフェアでいたいからだ。じゃあ、どこに行けば独りになった大鶴肥満を待っていてくれる人がいるのか?檜原がいる。「Mちゃんと付き合えたら芸人引退してもいい」と言っているような男を、檜原はずっと待ち続けてくれる。大鶴肥満も過去には他に相方がいた。でも就職をしたからコンビを解散した。檜原が就職のために大鶴肥満を失うことなどあるだろうか?

大鶴肥満には、檜原が必要だ。なぜならば、「まーごめとは、真の意味で万能ではない言葉」だからだ。これが『まードキュ』で語られる「まーごめとは何か?」の真実である。

過去とうまく決別できず、未来に繋がる彼女もできなかった。大鶴肥満にはなにもない。でも、檜原だけはそばにいてくれる。『まーごめ180キロ』は、観客がそれを知るための長い長い旅であった。

そして『まードキュ』は、大鶴肥満の「ひわちゃんにはもう感謝し尽くせないですね 本当に ひわちゃんにありがとう 感謝してる」という檜原を語る言葉でエンディングへ向かう。

「ひわちゃん、まーごめ」ではなく「ありがとう」。本当に伝えたいメッセージがある時、やはりまーごめは万能ではないのだ。

さて、ここまでは「まーごめとは何か?」という問題に絞って『まードキュ』を語ってきた。しかし、そもそも『まードキュ』が悲しくも可笑しいお笑い芸人の人生を映し出した大傑作コメディドキュメンタリーであることを忘れてはいけない。ここで語った内容は『まードキュ』の一部に過ぎず、まだまだたくさんの見るべきトピックが作品内に込められていることを記す。

また、『まードキュ』を芸人のツッコミ付きという豪華な環境で楽しめる『まーごめ180キロ』というライブの秀逸さについても触れておきたい。

実際、僕は都内開催のお笑いライブに少なからず足を運ぶ人間だが、『まーごめ180キロ』はここ2,3年でベストワンのライブだった。僕は『まードキュ』の映像表現的魅力について語ることはできても、『まーごめ180キロ』で見せる芸人たちの技術や関係性、巧みさについては文字で表すことができない。これこそが、僕が芸人を心から愛し尊敬する所以でもある。この記事だけでは『まーごめ180キロ』の面白さを微塵も表現しきれたとは思えないため、ぜひ期限内に配信で鑑賞することをおすすめしたい。

<記事内引用画像は『劇場版まーごめドキュメンタリー まーごめ180キロ』より。ヘッダー画像は『#79【Aマッソのゲラニチョビ】「GAME」』より筆者加工・引用。>

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