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【海と山の境目】 第10話 シンプルな強さ

どうしても納得がいかない、理不尽なアクシデントが、隆志に起こってしまった。過去に勤めていた会社の教え子に、自分の個人情報が、漏れていたのだ。電話番号ばかりではなく、住所までもリークされていた。自分の履歴書を見ている勤務先の同僚が漏らしたことは、間違いない。しかしながら、企業は、そんなことは事実無根であり、第三者機関で争うのも辞さないと主張している。多勢に無勢。自宅の玄関の扉をあけて、昔の教え子が立っていないかを心配する日々が続いた。

こんな状態であれ、認知を変えて対処できる自分がいた。自分に必要なことは、自分にとって嫌いな相手であれ、その人を必要としている人だっているのだから、その人が存在するというロジックを認めることだった。それを自分自身に納得させることは、教えることを仕事にした後の隆志には、意外にも簡単なことになっていた。

暗い洞窟の中から見える光に目を向けて、かくれんぼが終わったことに気づかなければ、新しい芽が出てこなくなる。これは、自分の受け持った教え子に、常に教えていたことでもあった。だから、今回の自分に降りかかってきた理不尽なことに足を引っ張られていることは、時間の浪費でしかない。そう割り切るしかなかった。

洞窟で、ろうそくの灯を頼りに筆を動かして、積みあげた砂をばらまこう。砂を集める姿勢と、影を埋めるように書く姿勢から、時間を包み込む難しさを知ることができるかもしれない。教壇から降り、若い人たちに、創作の素晴らしさを教えられた。その過程の中で、徐々に、年齢を重ねていく自分。やがて、腕力は衰え、力の支配の愚かさに気づけた自分が、言葉に手を伸ばし、経験が、その言葉達に深みを与えることを知った。

そのような自分の成長を、そっと雨音に呟いたときの彼女の反応から、雨は、大地に吸収されるたびに音を奏でることを思い出した。届いた雨の音は、いちばん新しい。たとえ落ちるまでの距離を測れなくても。切に、雨音が欲しかった。隆志は、憎らしいほど突き抜けた晴天をみつめながら、これから来るであろう「あの時」の身体の行方を心配していた。

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