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【海と山の境目】 第3話 傘と裏路地

雨が降り始めた。裏路地にあった昔ながらのたたずまいのBar。傘を閉じて、試しに入ってみれば、一見さんお断りの雰囲気。店に入ったときの縄張りに入ってしまったような乾燥した空気とともにドアを開く。そういえば、あの金網越しの護送車の終着点は、内側から鍵が開かない場所だった。この店を出る時は、どんな気持ちになるのだろう。

冴えない常連だらけの輪の中に入れない。凍った空気の中にいる自分。テーブルに映る影。いたたまれない場所だ。ただ、あのバスに揺られ、あの場所へぶち込まれた事に比べれば、薄汚いBarの薄っぺらい縄張りの窮屈な空間など、隆志にとっては、広くて快適なものだ。安っぽい会話。卑猥な話。よく解っていない政治の話。

店を出よう。くだらない窮屈な空間から出ていく時に注がれる背後からの視線。古びれたドアを開けて外に出ると、星たちが輝いていた。自分の都合の時間で外出できるなんて、あのバスの終着点に比べれば、おままごとの世界だ。

店の外は、雨雲も相まって、真っ暗だった。夜道は、隆志にとって恐怖でしかない。どこかから突発的に起こる音を、酷く恐れる。どこを歩いていても、常に背後に何もないことを確認しなければ歩けない。あるはずの自分の影がなくなっている。仮にあるとしても、誰かが造った街灯に照らされた、いびつな形をした影だ。

顔の傷が痛む。この傷は、自転車で夜道の急な坂を走っていて、激しく転倒したときに負った怪我だったのだから。特に、夜の悲鳴やクラクションは、全て自分に向けられた怒声に感じる。これが、心的外傷と言われるものなのだろう。影の無いところから飛んでくる矢尻を恐れていた。

隆志は、心の表面を覆っている滑らかな膜が、気まぐれなアクシデントで破裂するかもしれないという不安に耐えられなかった。だから、自分が痛みを感じていることを知らせるサイレンを鳴らさずに、穏便に取り繕うことだけが、正しいと疑わなかった。少なくとも、雨音と身体を重ねる前の隆志は、自分をピエロのような道化師ように振る舞うことが、生きるうえでの得策でしかなかった。

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