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【海と山の境目】 第5話 船の泡

先日受け取った、隆志にとって、一番大切な雨音に返事を書いた。彼女への想いを再確認することで、物事に対する良し悪しの視点は明確になり、繭の中に大切にしまってある、自分の心の重心も、安定させられるはず。雨音と経験した、「あの時」を、絶対に無駄にしたくはなかった。もし、この手紙の返事を書いて、自分の心に、雨音に対する想いが消えるような矛盾が生じるのなら、自分自身が泡となって、深海に沈まなければならないと決意していた。隆志は、降伏したくなかった。

隆志は、誰かに激しい怒りを感じたときに気を鎮めるための考えがある。嫌いな人も、好きな人も、咄嗟に頭に浮かぶのは三人程度。残りの人たちには、すでに関心がなくなっているのだ。これから流れる時間の中でも、泡となって消えていく人達の方が、余程多い。くり返され、限りある、小さな時間の幅で、すれ違う事さえない人の数なんて、空から降る雨の数を数えるのと同じくらい虚しい事。だから、時間という貴重な資産を、怒りという感情で破壊してはいけないのだと思うようにして、自分を律していた。ただ、隆志の心を自由自在に舞い踊らせることができる雨音の存在は、「あの時」と同じように燃えさかる気持ちと同じように膨張するのかは、よく分からなかった。

孤島へ向かうはずの船が、向きを変えて港へ戻ろうとした瞬間に、安定した大きな船にしがみついていた手を離す。ひとりでも、自分の目指す孤島に到着する気持ちを失ってはならない。人間関係だって同じだ。特に、隆志にとって、無意味な仲間意識の輪の中に入って、傷を舐め合うなどというのは、窮屈以外の何物でもない。

自分だけの孤島を、独りきりでも目指さなければ、向かってくる海流に溺れてしまう。そのことを知った「あの時」。顔の傷跡など気にせず、もっと言えば、その傷跡さえも隠さずに曝け出したまま、裸で抱き合い、相対する互いの顔の変化を感じていた。やがて、雨音が迎えた絶頂を明かす潮水とともに、自分の身体から放出された白波とも言うべき精液が吐き出された瞬間。水でも光でも風でも音でも、自然の動きは、必ず時間軸の上から離れることなく流れ、消えてゆくはずなのに、噴射される白い水しぶきが放出される瞬間だけは、時間が止まり、その瞬間を絵に描いてみたいかのような奇妙な快感を覚えることができていた。

届かない手紙に祈りの文字を重ねる。入れられるはずのない音を、文字に託す。雨に溶ければ、行先は自由に広がる。雨は、大地に吸収されるたびに音を奏でる。深まるほど見えなくなる海と同じよう見えなくなってしまうのだけれども、溶けていく心のかたちを描写しようという人が確かに居て、それを言葉にしながら祈りを込めている彼女の存在を強く理解できた。

自然が舞い踊るためには、風が必要だ。生命が回転するためには、雨が必要だ。そして、全ては大地という舞台で繰り広げられる。そして、「あの時」、風と雨と海と大地が創り出す調和を、掴み取ることができた。

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