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暑かった日の記憶

ホントラッキーだった。

もの凄く暑い駅のホームに降りたにもかかわらず、軽く高揚する自分を感じていた。

僕が今日ここに居るのは「8月9日から14日までなのだけど空いてないか」と業界の大先輩からの電話に「はい空いてます」と答えたからで、そうでもなければ、何かしらの決心でもしな限り此処までやって来ることは無かったろう。
ある作家のプロフィールに載っていない、デビュー前の作品を読みになんて。

在来線の待ち合わせ十分間が待てずにタクシーに乗った。

「県立図書館まで」

「図書館、県庁のそばのですか?」

「えっと、この町は初めてなので分からないです」

いきなりダッシュボードから地図を取り出してページをめくり始めた。
ちょっと驚いたが、近道でも探しているのか新人さんなのかだと思うことにした。

「バイパスから入りますね」

「あ、はい」

結果ずいぶん遠回りになったらしい。

「すみませんお客さん、時間が掛ってしまって」

「いえ、大丈夫です」

「そこの塀を回っていけばすぐ図書館ですから」

少し多くかかったと思われる運賃を支払い、ものすごく暑いアスファルトの駐車場から運転手の云った『そこの塀の向こう』目指して歩いた。
あの運転手、建物の場所に見当を付けて走った挙句、遠回りして玄関前じゃなくて駐車場で僕を降ろしたんだ。それでも嫌な気分より遠距離恋愛の恋人に会えるような気分が勝っていた。

今日は夕方から簡単な打ち合わせを兼ねて飲みに行くことになっている。 それまでの時間。わずかな逢瀬だ。

ここから特急で2時間の町にある商店街が20年前に町おこしとして当地を題材にした小説を募集した。その受賞作品集に佳作作品として載っている。実は100%本人という確証が無い。いやまず間違いないらしいのだが、本屋はもとよりネットで検索してもタイトルすら出てこない。
以前ネットのファンサイトに一度だけ話題が挙がったことがある。
作者の生まれた年、出身大学などプロフィールがよく似ていること、本人とかぶる経歴の登場人物があることなどの情報があった。
間もなく「本人が公表していない情報はこのサイト掲示板から削除します」という優良サイトならではの理由で書き込みが消されてしまい、新たな書き込みも無かった。なぜか他のサイト、例えばウィキペディアでもその作品の事は載ってない。そう云えば本名も明らかにされてない作家だ。
僕はうろ覚えだった作品集のタイトルを国会図書館に照会しこの図書館に所蔵されていると云う情報を得ていたが、それをそのファンサイトはもちろん自分のブログにもどこにも書き込まなかった。

ホテルのチェックインが5時だった為1週間分の荷物を持ったまま移動していた。エントランスにあった大型のコインロッカー2つを使って身軽になると案内板を探した。
郷土のコーナーは2階だった。階段を上がって目的の場所に向かった。
郷土コーナーは意外に広く自力で探すのは、あっさりと諦めた。

職員のいるカウンターに行って

「すみません この本を探しているのですが」

と、書籍番号を書いた紙を渡した。

「はい、こちらへどうぞ」

初老の係員は迷わず目的の書棚へ

「こちらですね」

と、一冊の四六判を渡してくれた。

まさにそれだった。

「ありがとうございます」

お礼を言ってそばの席に着くや目次を開いた。佳作は3作品、その中で女性は一人。むっ?と思ったが、それが彼女の本名だとわかった。
29歳の時の作品。作者の経歴から察するといかにも彼女らしいタイトル。

2度読んだところで席を変えた。
奥の方のちょっと暗い感じ席。ページ数もそんなに多くないのでデジカメに撮れないかと思ったのだ。いや、さっきのカウンターで研究用だか何だかの資料なのでと云えばコピーが貰えるかもしれないが、何故か断られる気がした。市外人の僕にはここの貸出カードを作ることもできないだろう。

わずかな時間考えたが、結局写真は撮らなかった。気が咎めたというより本の形で読みたいと思ったからだ。読みたくなったらまたここに来ればいい、そんな気にさせる作品だった。手帳にプロフィールを写し、あらすじと感想を書いた。もう一度読み返し書棚に返した。
コインロッカーから重たい荷物を取り出して表に出た。ものすごく暑かった。

歩いて在来線の駅へ向かった。


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