仲直り

私は小さい頃からどうも仲直りが苦手な傾向がある。
というのも、身近にいる人とずっと小さい頃から馬が合わず、何十年も知っていて、相手の嫌な事は分かっているはずなのに、自分を何も鑑みず、いつも相手に自分の都合のいい様に変えろ、変えろと要求してくる人がいるから。
何十年経った今も、喧嘩は絶えず。
私はただただその人と普段から距離を置くしか方法がないのである。
顔を合わせれば、ほとんど口喧嘩が始まる。幸せな思い出など共にした事はほとんど記憶にないし、皆無に等しい。
何十年も、同じ様な嫌がらせとも取れるであろうそれを、延々と同じ空間にいるとされるのである。妥協点などあった事が無いのだと思う。
よく子供は親の所有物ではないと言われているが、そうは思わない親もいるという事である。全ては自分の思い通りになるべきであり、全ては自分の言うことを聞いてもらえるものであるという認識なのである。
私には苦痛でしかない。
小さい頃も、かなり環境や思想は縛られていたのであろうと思われる。
保護されるべき年齢までなら仕方のないことだと思われる。しかし成人した今もその様な事があり、自分と他人の境界線の分別がつかないのであるとすれば、かなりしんどいものがある。
その様な事もあり、私は「距離を置く」という選択を極力とっているのだが、それもやはり長年にわたり、変わる意思のないものはいつまで経っても変わらないのだ。という一種の諦めから来るものでもあるのだと思う。
その様に凝り固まった思想の背景があり、社会に出てからも、かなり苦労しているものなのだと、ここ数年SNSを介して、特にとても顕著に自分の置かれていた環境と思想と、知る様になり、自分の生き辛さを感じていたそれには、根本となるものが存在していたのだと認識する。
「教育」とは、正しく善にも悪にもなりうる。複雑で難しいと言えばそこまでだが、簡単で単純だと言えばそれもそうだ。
思考の出発地点が何処にあるのか?でも、かなり左右されて来るのだと感じる。
正直周りに家族の仲がかなり良い家庭の同年代の子などいるが、その逆もいるわけで。
昔はズレなど感じず、そこまで気にしてもいなかったが、確かに血は繋がっていなくとも、家族の様に接してくれ、自分の意思は示すも、時に譲ってくれ、私の為に本当に変わってくれる人がいるのだと、そういう本物の存在に出逢えた事がきっかけで、今までの経験はなんだったのだろう?と自分の人生と考えさせられる事もあり。
自分の離れがたい周りの人達や環境に影響されて不幸な思いをしていたところ、それらの思考から外れて幸せになりたいと思っていれば、それを本当に叶えてくれる人が現れてくれたのだととても感動したものです。
先ずは自分から。よく言われている当たり前の様な言葉ですが、それが当たり前じゃない人たちに育てられると、その様な思想とは外れていても、相当なクセもついている様で、中々変える事が難しい部分もある。
それに加えて、天性の気難しい気質が、個性と言われている部分があった場合には、更に複雑度も増し、中々理解してもらうには困難。結局やはり自分が変わった方が色々と早いのだという結論に至る。
仲直りについて、なんだけれども。
実際、私はその人とは、共生は出来ても、共存は私のストレスになり過ぎて無理だと結構早い段階から判断を下している。
相手に私がストレスだと感じる言動を変える意思が無いのだから、致し方のない事だと判断しざるを得ないのである。
「好きな事が一緒なことよりも、嫌いなものが一緒の方が上手くいく。」とはよく言ったものである。
なので、人は変わらないし変われないものだと思っている自分にとって、自分の判断に基づき、私がストレスに感じていることを、辞めてくれたり、変えてくれたりする人の存在は、それだけでもかなり衝撃的なのである。
いつも譲らざるをえなかったり、我慢したりの方が多い人生だと思われ、他人優先の方が多かった気もする。
実際は譲れないものは譲りたくないし、嫌な事は極力距離を置くという方法で解決してきたのである。背景故にその様な行動がスタンダードになっていた。
好奇心旺盛だったというのもあり、色んな経験もしたく、選んでいなかったのではなく、ただ単に逃げていただけだったのかもしれない。しかし逃げも一種の生存本能。
でも今は、本物を知って、知りたい幅も確かにまだまだあるにはあるけれど、選択の基準はだいぶ変わったのだと思える。
しかし歩み寄るとは大変な行程で。
相手が変わってくれる人で、行動で反省を示してくれていても、仲直りの機会を幾度も作ってくれていたとしても、自分の気持ちの切り替えは昔と変わらずヘタクソで。中々損ねた機嫌は直ってくれない。
頭では早くに仲直りをした方がいいのは分かっている。がしかし、昔からの経験上、根本的問題の解決がなっていないのに仲直りをしたところで、以前の繰り返しになるだけなのは少し考えてみれば分かることだし、根本的な根っこの部分を疎かにしたところで、双方にメリットというか、以前よりも仲が良くなったり、良い方向へ進んではくれないという事は顕著なのである。
徹底して気持ちの整理と、反省をするまでに時間がかかるのである。私には必要な時間なのである。徹底して変えたいという意思があるからこそ、時間がかかる。
確かに折角仲直りの意思が相手にあるのに、というのは正論であり、クリア出来ればそれほど良い事はないのだけれど、今の私には到底無理な事で。
相手はそういう切り替えが得意な様で、それはすごい事だと思う。優先順位をつけるのも早ければ、行動に起こすまでもかなり早い。
それは確かに相手にも言い分があり、相手が譲ってくれるまでには、相手にも葛藤と理由がある。しかし私もストレスと我慢の限界だと、その様なものは聞くに聞けるが、理解は出来ないという結論に至る。
その様な結論に至るまでは、私にも言い分があり、耐えられると自分を変えて、相手に合わせてみて、譲ってみた末に、蓄積されたストレスと我慢が限界に達し、もうこれ以上は無理だ、無理なら距離を置くしかない。という結論に至っての判断なのだ。
最初からどうでもいいなど思っていたのなら、その結論にまでは至らないのである。
歩み寄るとは大変な行程で。
相手が私への言い分をもう聞いてもらえないのだと判断してからの切り替えと行動は早く、いつも尊敬に値する。
私は切り替えの練習が足りず、切り替えが下手くそ過ぎて後半らへんには、相手の行動による変化に愛情を感じ、仲直りすべくだと頭では分かっていても、理性では分かっていても感性が追いつかない。
やはりとても傷ついた。という気持ちの方が大きく、中々切り替われない。自分の気持ちには素直だ。相手を愛しているが故に中々に傷が深い。
結局理解してもらえず、直接距離を置いて縁を自分の中では切った、もうこれ以上関わるのはやめよう。とした人は、人生で数人いるけど、SNSにでて数年経ってからは、この世で出会った人の数が少なかっただけであって、特にネット上などでは、その様に自ら防戦をはってガードしないといけない人などもっと多いのだ、ということを知った。
そもそも変わってくれるまで愛してくれる人など、そもそもあまりいないと言える。居たとして、気付いていないだけかもしれないし、そんなに深く関わりたいと思える人ではなかったのかもしれないし。
距離を置いた方が平和に暮らせる。という概念が小さい頃の影響で身についてからは、あまり他人と距離を近く保つという事は避けてきた気がする。
歩み寄るとは大変な行程で。
こんなに愛してくれるのに、許せないし許したくないという気持ちもあるにはあったりする。
「今の人は壊れたら直ぐに新しいものに変えようとする。昔の人は、壊れたら直ぐに直そうとする。」というものをネットで見かけて、ハッとしたものです。
確かに今の時代は比較的とても便利で、考えようでは取っ替え引っ替えできる。
しかしこの間見た連続ドラマのセリフにもあったけれど、「替えがきかないものは、どうしても替えがきかないんだ。お前は誰にも替えがきかない、唯一の存在なんだ...!!!」
確かに一緒に過ごした時間は、誰にも変えられない過去。
故に許せないものもあれば、かけがえの無い時間だってある。
10年くらい経っていたり、20年くらい経っていると、昔の知り合いたちは、随分と方向性や人生観が変わっていたり、何も変わっていない様な人がいたり、ちょくちょく連絡は取っていたが、共に過ごした時間が少なかった故に、1番の記憶が過去に取り残されていて、今の相手がよくわからない人物になっていたり。
色々考えてしまう機会でもあった。
仲直りは苦手です。
あまり他人と喧嘩しないから。喧嘩するくらいなら我慢しちゃったりする。断るのも下手だったし。そもそも断りたくなる様なところに幾度も行かない。スパンもきっと他人に比べて長いし、時が流れるのがとても遅い。
明日は我が身や、今を大切になどよく言われ、頭では理解しているが、どうにも切り替えが遅い。
徹底して反省するクセがおそらく小さい頃から身についている。故に過度に責められると、逆に苦しく辛い。
一般的に人は自責よりも他責らしいです。
私は環境が環境だったので、他人が変わるのを待つのがあまりにも無理だし、変わらないものなのだと早々に諦める思考回路が形成されているので、限界まで待っても変わらなかったら、無理だと判断して切ってしまう。他責はするけど、行動は自責的。
行動できない、或いは自分が今すぐに変われない情勢だったら、取り敢えず距離を置く。一種の防衛本能なのかもしれません。気が済むまでそういうことをしているので、ある意味損な人生かもしれない。そんなうちに、他の楽しみを楽しむ人もいるでしょう。
自分に向き合う時間が長い。
他責になりづらいのは、確かに言い出したらキリがないというのもあるとは思う。
最低限無理なことだって幾つかある。確かにあるけど、どうでもいいかもしれない、そんなに要求するまででは無いことだってあるのかもしれない。
私は一途であってほしいだけです。
きちんと相手を見ても、相手が私をきちんと見てくれているかどうかなんて、分からないことだってあります。
でも、確かに私のことをきちんと見てくれている人というのは存在する。
自己中心的な付き合いなのか、相手への愛がある付き合いなのかは、そこら辺が基準な様な気もします。
確かに言動にもよりますけど、どうしてもできない性格的な部分。そこが自己中心的に捉えられてしまう事もあるのでしょう。
なので、歩み寄るとは大変な行程で。
お互い様っていうのは、お互い思いやりがあり、相手へ歩み寄ろうとする気持ちがお互いあっての愛ある関係だと思います。
譲られたら、譲ってあげて、の繰り返しなべきなんですよね、本来は。
でも人それぞれスパンも価値観も考え方も違う。全ての人に好かれる事はやはり無理だし、それだと自分という存在が最終的に死んでしまう。
本当に大事なものと優先順位と。自分を1番大事にする事が他人を大事にすることに繋がると言われているのは、その事で生まれる余白と余裕のおかげだと思いました。
自分の気持ちがごちゃごちゃしているのに、相手に建前で仲直りを申し出たところで、逆に不誠実なのかもしれない。
きちんと自分に向き合う時間があってこその相手にきちんと向き合える時間。
仲直り、上手くなりたいね。喧嘩はしないに越した事はないので、喧嘩じゃなくて、話し合いが本当はいいんだけれどもね。

好ければよろしくお願いします・*