退屈と永遠さ?

30分間、ただただ待つ。
主体性を重んじればそうなった。

この間に待つ以外にできることを、あらかじめ想定しておいた方がよい。と、いうのは生産性中心的発想かな?

何もなければその時間を味わうという道もあるが、ローカル電鉄で大雨により運行見合わせてるときの「待ち」とは違うくて、味わい深くない。

待つことが非日常であれば、日常から離れた特別感があるが、日常だとなぁ。

相手に対する「もう少しなんとかならんかったのか?」という疑念と自己都合な期待を抱くから、そしてそれは、なんとかなるような努力ができるものという価値観の押し付けで、いわゆる自己責任論の類い。

んー、まだまだ「全てを受け入れる」には遠いなぁ。

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