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毛穴

人間は哺乳類である。
哺乳類の定義として、体が毛で覆われていることがあげられる。
つまり人間は、体が毛で覆われている生物と定義される。
体が毛で覆われているということは、毛穴がある。毛穴があるということは、人間であるということの必要条件である。
なのに、近年の人間は毛穴を隠そうとする。
毛穴が目立つ顔は醜いとされ、カバー力の強い化粧品等によって、毛穴は隠されようとする。

人間であるならば当たり前である事項が否定され、人間は皆、人間の要素から遠ざかろうとしている。目指しているものは、大衆が定義した「美しい人間」なのかもそれないが、前述の通り、人間は毛穴があるから人間なのである。毛穴が無ければ、それはもはや人間ではない。

大衆は、人間ではない何かにでもなりたいのだろうか。

そんなことを、毛穴詰まりがとれて綺麗になる化粧水を使いながら考える。今自分が拭き取っているのは、毛穴汚れなのか、醜さなのか、人間らしさなのか。

大衆によって曖昧に造られた美的感覚によって、自己を肯定出来ずに苦しんで、死ぬことを選ぶ人もいる。今日も人間は、殺人的な美意識に駆られている。
逆に、毛玉のような動物が愛玩されることがある。その動物は、毛穴どころか皮膚すら見えないほど、全身が毛で覆われている。自分は毛穴すら隠そうとして、脱毛サロンに通う生物のくせに、かたや犬猫にはふわふわの毛皮を求める。ないものねだりの、ないものねだり。無茶苦茶である。


人間は弱い。だから、群れようとする。群れるためには、大衆に属す必要がある。大衆に属すためには、異端な点を省き、溶け込む存在である必要がある。これにより、人間は均一な形にならされる。

群れるためだけに削ぎ落としているものが多すぎるように感じる。

私が本当に削ぎ落としたいのは、無駄な固定観念と、無意な大衆イメージと、腹回りのうきわ肉だけであるのに。

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