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四則演算

 誕生日って引き算じゃないか?

 そう思ったのは齢24歳の誕生日を迎えた時だった。24回目にしてやっと新しいことに気がつくこともあるのだから、何事も何回か経験しておくべきなんだなとつくづく思う。

 誕生日を迎えると、人々は「おめでとう」を伝えてくれる。確かに、この世に生誕すると言う奇跡が発生してから、なんだかんだで24年間も生き永らえているんだから、紆余曲折あれどそれなりの奇跡は持続していると思う。祝われて然るべきであろう。

 だがむしろ、24年間もこうしてこの世にしがみついていられるのは周りの方々のお陰様である。祝福されるどころか、誕生日になったら、自分から周りにありがとうと言って周りたいくらいの心境である。

 改めて、皆さんありがとう。
 生まれてから24年。24回目の誕生日。これからあと何回の誕生日を迎えていけるのかは分からないけど、皆さんと一緒に何かを積み上げていければいいなと思う。



 いや待てよ


 昔は、間違いなく前に進んでいた。
 歳をとるとはそう言うことだった。

 赤ん坊から少年、少年から大人になり、誕生日と言う節目を超えるごとに、社会的に出来ることが増えていった。年月が足されて行き、私という人間は前進して行った。


 だが、今は24歳。身体も徐々に鈍ってきた。顔を大人びるどころか、老け始めてきたようにすら思う。

 若年ながら気づいている。
 そうだ。誕生日という節目を境に、私は確実に、ゆっくり、ゆっくり、死へと近づいていっている。


 そう思うと、誕生日と言うのは、死へのカウントダウンのようにも感じてくる。我が国の人間の平均寿命は80余年。これは、国内の超膨大なビッグデータにより炙り出された確かな数値。平均値であるから振れ幅こそあれど、自分もそのデータベースに対応する一つの生体であることは間違いない。となれば、『生誕24年』と言う言葉は、『死亡56年前』と言う言葉と同値であるではないか。


 いったいこれのどこが
 「おめでとう」であり
 「ありがとう」なのだろうか。





 いや、間違いなく
 「おめでとう」であり
 「ありがとう」である。


 人生は長寿の耐久レースではなく、毎日を一生懸命楽しんでいくものである筈だ。煎じられすぎてもはや粉末状となっている表現ではあるが、時間は有限なのであり、私という存在には終わりがある。最近は繰り返しの日常の中で、最低限をこなし、目的もなくうだうだと過ごしてしまっていたような気がするが、有限であるからこそ、前に進み続けなければならない責務があるのだ。それは、老いと言う波に逆らい泳ぐ鮭のように。

 私は、死ぬ時に周りの人に「ありがとう」と言える人間になりたい。


 誕生日は引き算だ。死ぬまでの残りの年数を刻んでいくものだ。

 いいだろう、それならば、最期に言い放つ特大の「ありがとう」のために、今のうちから出来ることを隈なくやっていこうじゃないか。



 世界の皆さん、今日も誕生日おめでとうございます。あと××年で死んでしまいますね。


 いつか迎える命の“引き“際まで、

 手間暇“掛けて“、

 苦楽を“割り“切って、

 最期のありがとうの“足し“にしていく


 そんな人生の四則演算の解がでますように。

 それでは、素晴らしい人生を

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