病名がつくのか

例えるならピーク時の飲食店バイトのハラハラがずっと続くようなそんな気持ちだ。
作業を止めてしまえばすぐさま地に落ちてしまうような、そんな危機感を抱きながら、増え続けていくタスクをこなしていく毎日。
こんな様相を“自転車操業”と喩えた人はなんともハイセンスだなとひしひし感じる。
自転車は漕ぎ続けないと倒れてしまうもんなーそうだよなーー。

僕は世に言う大企業の一つに勤めている。最大手企業ではないが、会社法の定めるところの大企業を定義を満たしているので、客観的な根拠はある。家族の支援の甲斐あって、進学校へ入学し、4年生総合大学を卒業したのだから、それなりのところに勤めて相応ではある。

昨日が給料日だったが、額面を見ていささか空虚な気持ちになった。3年目の若手社員ではあるが、四捨五入したらギリ30万円に乗るぐらいの手取りである。独り身の生活を支えるには十分過ぎる手当てだと思う。でも決して金持ちではない。時給換算で1,500円程度の働きを、毎日10時間ぐらいしていると考えれば、アルバイトで鬼のように働く日々よりも平穏であるのは間違いない。

別に、忙しいのは嫌いじゃない。いや嘘だ嫌いだ。でも、忙しいなりに、やっていて楽しいと思える瞬間は欲しいところだ。基本業務は覚えてある程度円滑に仕事はこなせているものの、僕はこの仕事に既に飽きを感じている。ひたすら面倒な業務の応酬、マルチタスクとは名ばかりの、大量の事務的な作業をいかに効率よく消化するかの毎日に、ゲーム性は特にない。僕がやりたいことってなんだっけ?

やりたいことを私生活で補填し、やらなければならないことをこなした末の給与をそのためのエネルギーにするのが、世間一般の生き方なのだろう。恐らく殆どの人が、好きに生きれてはいない。コンビニの策に腰掛けて人々が行き交う道路を見ながらそんなことをふと思った。

この電柱は誰が立てたんだろう。電線は誰がどうやって敷いたんだろう。信号がプログラムに則って定期的に色を変え、事故のない環境を作り出している。道路工事のガードマンが暗い中交通整理に精を出している。サラリーマンがとぼとぼと帰宅している。目に入る全てが世の中に貢献し、世の中を構成している。全部全員ありがたい。

でも、みんな生きるためにやってる訳で、やりたくてやってるわけじゃないんだろうな。電柱建てたい!電線引きたい!って思うのには結構な馬力が要るのではないか。幼い頃電柱に命を救われたとか、電線に育てられたとかじゃらない限り、人生をそれに費やす覚悟はなかなか決まらないだろう。

そんなド偏見があったから、人が好きな僕は、人とひたすら折衝する仕事を選んだ。好きを仕事にできるのが一番。そのチョイスは間違ってないと思うけど、いかんせん業種をミスってしまったと思っている。事務的で保守的でつまらない。あと僕が好きなのはおしゃべりであって、クレーム処理が好きな訳では決してない。増えていくタスクのどれもが面白くないから、頑張ろうという精神的なガソリンが切れたまま、それこそ惰性でただのたのた走っている、推進力を失った自転車そのものである。この文章を書いている今も、期日に遅れている業務の山に寝そべっている状態だ。ペダルは埋もれていて漕げない。

職種の選択をミスったと言ったが、何も学生時代の選択を間違ったとは思わない。こんなものは絶対にやってみないと分からなかったからだ。分かっていたのは、自分の心の奥底にある弱さとだらしなさだが、社会人になったら流石にどうにかなるだろうと過信していたのがそもそも安直であったと気付かされる。やはり、学生時代から注意力が無かった人間は、社会人になってからも根底にある人間性は変わらず、同じ側面で苦労することになっている。

この文章を書き始めて翌朝をいま迎えているが、ハラハラの限界なのか、体が自由に動かない。今日、明日、明後日、明明後日、その次の日も大事な商談があるが、準備が終わっていない。一生懸命やり切れなかったツケがまわって来ただけかもしれないが、それでもこの状況に直面した今、精神的に非常に不安定である。4時に起きたが、3時間半が経過してしまった。

置かれた場所で咲くしかない。改善した方がいいのかもしれないけど、今が最善かもしれない。だとしたら、人生ごと向いてないのかも。この記事にオチはない。そんな気持ちのせいで、起き上がったら始まってしまう今日を、迎え入れる勇気がない。

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