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第114回 別巻・定省の運命(さだみのさだめ)③猫を絶賛する話

宇多天皇は猫チャンLOVEなだけでこれを書いた?

『宇多天皇日記』は政治的な意図をもって書かれた文書と仮定すると・・・これはただ猫を絶賛するだけの日記のわけがありません。

猫日記が書かれた時期に注目してみます。

猫日記はリアルタイムで書かれたものではなく、父・光孝天皇はすでに崩御し、即位まもない宇多天皇が藤原基経に阿衡紛議でコテンパンにやられボロボロになってやっと落ち着いた頃に書かれたものです。

もともとなかった権威はさらに地に堕ち、弱り切った宇多帝を今度は他の皇族や源氏(元皇族)が天皇の地位をとって代わろうかと目をギラつかせて包囲網…

おそらく宇多帝は「自分だけが前の天皇から猫を与えられるほど愛されていた。そしてその形見が今ここにある!」…と、ささやかなアピールするためにわざわざこれを書いた…というマンガ的な空想です。

実はこの頃、藤原氏は基経とその妹・淑子以外で力のある人物はいませんでした。対照的に皇族と源氏はギラギラした人たちが何人もいて、虎視眈々と宇多帝をうかがっていました。定省の即位で「源氏からでも天皇になれる」という前例を作ってしまった以上、源氏全員が宇多帝にとって代わる権利ができてしまったのだから仕方ありません。

弱い立場の定省がそれでも天皇として持ちこたえられたのは、養母・藤原淑子という最強の後ろ盾があったからだと思われます。淑子のおかげで一時期もめた基経のバックアップも得られました。

「宇多帝は藤原氏と対立して・・・」のような解説本をたまに見かけますが、一時的な紛争こそあれ、対立どころか当初の宇多帝は藤原の力なしでは天皇の地位を維持することすら危うかったと思われます。

宇多帝と藤原との関係が良好だった証拠に、宇多帝と時平の関係はずっと良好だったし(法皇になってからでも時平の娘を娶ってる!)、さらに、時平の弟で最後の勝者になる忠平との関係は超よかったわけです。

いずれにせよ、宇多帝が猫好きだったのは間違いないようで、それは次回のお話でもよくわかります。

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