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第122回 皇太子・敦仁(あつひと) の巻

■皇位継承はスンナリいかなかった?!

敦仁親王は、高校日本史でも習う「延喜(えんぎ)の治」で有名な醍醐(だいご)天皇。道真が学問の指導を担当していました。

実は敦仁が皇太子になる前、皇太子候補はもうひとりいました。

弟の斉世(ときよ)です。

宇多帝は主要大臣たちに内緒で、道真と養母の藤原淑子だけに相談します。

これが歴史上、謎といわれている点です。

現代的な感覚でいうと「敦仁親が皇太子で何が問題なの?」と思ってしまいます。

なぜなら敦仁親王は

①兄
②藤原の血が流れている
 (弟の斉世は異母、藤原関係なし)

なので、表面的には問題なさそうです。

なのになぜ3人の談合が必要だったのか?

つまり、『本来は弟・斉世のはずが、本来の筋から外れた敦仁に継承させるために談合が必要だった』ということになるのです。

ここで現代的な先入観をいったん横に置く必要があります。

①宇多帝の時代は基本的に、兄弟の順番は皇位継承に関係なかった( 実際、宇多天皇も兄弟順なら3番手)。

②当時は血統が最重要。

兄・敦仁は藤原とはいうものの傍流。しかも祖母は地方豪族の娘で身分が低い。

一方の弟・斉世は天皇にふさわしい血筋でした。

まわりのみんなは「敦仁でもまあ悪くはないけど、どっちかというなら斉世だろ」が自然な認識だったのだろうと考えられます(ここが現代人にピンとこない)。

では、なぜ本筋どおり斉世ではなく、密談で敦仁を立てたのか?

うう…これはムズカシイ。

現時点で私なりにいくつか仮説はあるのですが、まだ結論は出ていません。 しかしこれは道真物語の最大のキーになる事柄なのでいつか描いてみたいなと思っています。

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余談ですが、二人の兄弟が生まれたのは宇多天皇がまだ源定省(みなもとのさだみ)、つまり臣下だった頃。

ということは、息子二人とも臣下の息子、臣下でした。

つまり、宇多・醍醐と二代続けて臣下が天皇になったわけです。

当時の理屈でいうなら定省が宇多天皇になってから以降に生まれた子が皇太子にふさわしい…となるはずです。

なのに譲位を急いだのはなぜか…ここもポイントになってきますね。

補足メモ)
敦仁の祖父は藤原北家でも傍流。当時五位(ギリ貴族)の人。公卿ですらありませんでした。
祖母は京都山科(やましな)の豪族の娘。
一方の弟・斉世の祖父は名門・橘氏(偉い学者で四位。没後に三位中納言まで贈られている)。祖母は天皇系。


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