虹色の免許証(後編)
K子とぼくの距離
羽田空港の国内線へ向かう道中、隣でK子が居眠りをしている。ぼくは免許合宿に向かうこの日まで、ずっと思い悩んでいた。
ノンバイナリー。それは、男性か女性の二択にとらわれない考え方。海外では、出生証明書やパスポートの性別欄にも印字されるようになっている。日本では自動車免許から表記を変えていこうというわけだ。
ノンバイナリーという言葉を調べるほど、この半年間で接してきたK子の身なりや言動が一気に繋がった。ぼくがもらったネックレスは、男性用のブランドだった。
(自分が好きなものは好きって言っていい。他の人が何を選んだっていい。そういうことが大事なんだよ。)
初めてK子に出会ったあの日、あの言葉は、自分自身に言い聞かせているようだった。
ため息をついた。K子の恋愛対象が、男性じゃないかもしれないってことに。いったい、いつからそうなったんだろう。家族には話しているのかな。……ぼくは性的な対象として見てもらえてない?
そんな疑問がほぼ毎日駆け巡った。でも、実際に聞くことはできなかった。ぼくは、男性、女性以外の人と言葉を交わすことなんて一度もなかったから、どう接せすればいいかわからないんだ。真田だってそうだ。突然カミングアウトされてしまったけど、男性を好きな男性に出会ったことがない。ゲイという言葉を聞くだけで、なんだかぞわぞわしてしまう。得体のしれない宇宙人のように感じる。そんなふたりと、いま、宮崎県に向かっている。色分けされた自動車免許を取りに……。
昼過ぎに到着した宮崎空港は、ぼくの思いとは裏腹に、雲一つない快晴だった。K子がぐぐっと背伸びをしながら、空を見上げた。
「いいね、宮崎。めちゃ暖かい! 見てよ。ヤシの木がある」
K子が指さしたヤシの木は、車道沿いに等間隔で並んでいた。その方向に、白いワゴンが停まっている。ドアにはカラフルな文字でこう書かれてある。
(吉田学園ドライビングスール)
ぼくたちが免許を取る自動車学校だ。キャリーケースを引きながら近寄ると、アロハシャツを着たおじさんが運転席から出てきた。
「真田ご一行様ですか? 申込書をみせてもらえますか?」
すると、真田が運転手の方に近寄り、用紙を手渡した。
「はいはい、たしかに。横浜からなんて長旅でしたでしょう。まずは宿泊所へ向かいます。後ろにキャリーケースを乗せましょう」
運転手はワゴンのトランクを開け、K子が手にしていたキャリーケースを運ぼうと手をかけた。するとK子は、その手をよけるように後ろに下がつた。
「あ、自分で乗せられるんで大丈夫です」
そう言って、「よいしょ」と車に乗せた。真田とぼくは顔を見合わせ、いそいそと自分のキャリーケースを乗せた。運転手は、何も気にしていないというふうで、運転席に戻っていった。
K子は一番後ろの席へ、ぼくと真田は扉の近くの席に座った。車が走り出すと、さっき見えていたヤシの木は、とても大きかったことに気が付く。窓を開けて見上げると、ヤシの木に上から覗き見られているようだった。
車内はしばらく無言だったのだが、ふと運転手が、明るい声でぼくたちに語りかけた。
「皆さん、今年からジェンダー論の試験もありますから、とっても難しいでしょうが、しっかり免許を取ってくださいね」
「え、ジェンダー論の試験? それって何ですか?」
「あれ、知りませんでしたか。去年から、免許の性別を色分けするようになったでしょう。だから自分の性別について理解を深める授業があるんですよ」
「真田、知ってた?」
「うん、だから朝野を合宿に誘ったんだよ。しかも、ここの自動車学校は、大学教授がジェンダー論の授業をしてくれる。評判がいいんだよ」
「そうなんだ。2週間で免許を取れるか自信なくなってきたなぁ」
そう言って背もたれに身体を預けると、運転手が笑った。
「大丈夫ですよ。自分の性というのは、ほとんどの人が理解しています。それより学ぶ必要があるのは、自分とは異なる性を持つ人との関わりです。ジェンダー論を教えてくれる先生は、そのあたりを丁寧に説明してくれますよ。さぁ、着きました。ここが宿泊所です」
目の前に現れたのは、ベージュのペンキで塗られた木造のコテージだった。入口には、受付をしている同じ年くらいの女性たちが集まっていた。車を降りて荷物を降ろす。そういえば、車に乗っている間、K子は一言も喋らなかった。少しうつむき加減だ。緊張しているのだろうか。
「K子さん、車酔いした? 大丈夫?」
「大丈夫。受付にいこう」
そういって、キャリーケースを持ってグングンと進んでしまった。ぼくと真田は運転手さんに会釈をし、受付に向かった。
受付で簡単な説明を受けた。朝・夜のごはんは、食堂でAかBコースのどちらかを選ぶこと。部屋の掃除は2週間各自で行うこと。宿泊所からドライビングスクールまでは自転車で10分くらいの場所にあること(貸し出し用の自転車があるそうだ)。
部屋に荷物を置き、ぼくたちは宿泊所を散策した。離れにはコンピューター室があり、仮免許の過去問題がそこで解けるようになっていた。アミューズメントスペースとして、ジムや体育館、カラオケボックスなんかもある。免許合宿っていうから、もっと質素な感じだと思っていたけど、だいぶ整っているんだな。一通り見て回り、ぼくらは自主室で腰を下ろした。そこで、K子がぽつりとつぶやいた。
「さっきは、ごめん。車で嫌な態度とっちゃって……」
「K子さん、何か嫌なことがあったの?」
「ううん、そういうわけじゃない。年上の男性が苦手なんだよね」
そう言ったあと、K子さんは黙ってしまった。すると、真田が沈黙をすくい上げるように言葉を発した。
「ちょうどいい機会だよ。俺らはお互いのことを深くは知らない。この合宿で車と、自分のジェンダーに向き合うことになる。まずはこの3人でカミングアウトしよう。どう?」
カミングアウト。その言葉を聞いて、ぼくは胸がズキッとした。何かが引っかかるような気がした。
K子が、ちらりとぼくらを見て、ため息をついた。
「いいけど……。どうしようもない話だよ」
そう言ってから、K子は話し始めた。
「小6年の夏休みのとき、地域の夏祭りがあってね。友達と、その友達のお母さんと出かけたんだ。焼きそばの売店で並んでたとき、3人の高校生の男子にからかわれたの。髪をぐしゃぐしゃってされたり、服を引っ張られたりした。『胸、揉んじゃえよ』とか『ガキの女はすぐ泣くからやめとけ』とか言いながら笑ってた。怖くて声も出なかったよ。友達のお母さんは、たぶん気づいていたと思う。でも間に入ることはなかった。やり過ごせばいいと思ったのかもね。
それからかな、私は自分が女性として扱われることが嫌になった。女性らしい体になるのも嫌で、高校生までずっと男物の洋服ばかり着てたんだ。でもね、男になりたいっていうわけでもないんだ。うまく言えないけど、男性、女性と分けられることがすごく不自然な感じがした。性別の枠組みなんているのかな。自分なりにジェンダーのことを調べたら、アメリカに住んでるノンバイナリーの活動家を見つけたの。その人の動画を観て、私もノンバイナリーかもしれないと思ったわけ」
そこまで言い終わると、K子は手をパッと開いて「That’s all」と言った。
K子の過去の出来事なのに、なんだか居心地が悪い。自分も子どものときに女の子をからかったことがあったから、責められているような気がしたんだ。
ぼくは、一番知りたいことを口にした。
「K子さんは、男性も女性も好きってこと?」
「んー、まだわかんない。自分を表現する性は、どちらかに偏りたくない。今はそれだけ。こころの性まではまだ理解できてないんだ」
頷きながら聞いていた真田が言う。
「K子さんは幼少期にセクハラを受けたことで、女性と認識されることに抵抗を覚えたんだね。正直、その高校生たちは天罰が下ればいいと思うけど、やっぱり男性というだけで特権を持つ側にいるからそういう発言や行動になるんだ。彼らのような人が正しい行いができない限り、この世界は変わらない。だから、K子さんが受けた傷は大なり小なり、多くの女性が感じているんだと思う。この合宿で何かわかるといいね」
真田は、本当にできた奴だよ。ぼくは自分のことばかり考えていた。K子は同性愛者なのかもって落ち込んだり、いろいろ質問して嫌われたらどうしようって思ったりした。ぼくもその高校生たちと一緒だと思われてないか、とも。
なんだろう、すごく恥ずかしい。ぼくは彼女を知りたくて、この半年間ネットで検索ばかりしていた。けれど、K子と向き合うことを避けていたんじゃないだろうか……。
その後、真田の過去について話があったのだけど、ぼくはあまり聞いていなかった。
翌日、ぼくたちは自動車学校に向かった。借りた自転車はおんぼろで、少し軋む音がしたけれど、真っ青な海を横目に自転車をこぐのが気持ちがいい。
南国リゾートのようなカラフルな建物が見えた。吉野学園ドライビングスクールだった。到着してすぐ、入校式?のようなオリエンテーションが行われることになっている。
2階に上がると、縦長の大きな教室が広がっていた。教室にはすでに50人ほどがいた。こんなに合宿で免許を取る人がいるんだな。このなかにも、真田やK子のようにLGBTQ+の人がいるのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていると、チャイムが鳴った。それでも教室内の喧騒はおさまらない。友達同士で来る人が多いせいかもしれない。
しばらくすると、ベージュのスーツを着た男の人が入ってきた。小太りで、口ひげを生やしている。教壇に立ち、振り向いた。そのゆっくりした佇まいに、教室にいた誰もが目視した。
「皆さん、今はお友達とお話されていると思います。そのお友達とは2列以上離れた席に座ってください。前後左右、まったく見知らぬ人が座るようにしていただけると助かります。制限時間は1分。はい、スタート」
え、どうゆうこと? 質問する間もないまま、その人は「58、57、56」とカウントダウンを始めている。周りの人たちが慌てて席を探し始める。真田は中央、K子は最後列、そしてぼくは前から2番目の席に座った。
「3、2、1。はい、終了です。皆さん座りましたね。それでは、入校オリエンテーションを始めます。初めまして。皆さんの担任の立花育人です。年齢は52歳。生まれは……。まぁそんな話はいいでしょう。皆さんはこの2週間で車の免許を取得するわけですから、長くとどまるわけではありません。皆さんが一人残らず免許を取得されることが、私の一番の目標です。しかし、皆さんもご存じの通り、昨年、「性別色分け制度」がスタートしたことで、個々に何色にすべきかを判断しなければなりません。また、この制度を取り入れることにより、いじめや暴力のような問題が顕著になることはこの制度の本意ではありません。そのことをよく、理解していただきたいのです」
まるでドキュメンタリー番組のナレーションのような、淀みのない話し方だ。凛とした姿で話す先生だと思った。
「さて、ここでひとつゲームをしましょう。紙を配ります。その紙に名前を書いて、丸めてください。どんな形でもいいですよ」
前の席から届いた紙は、何の変哲もないA4用紙だった。その紙に名前を書いて、ギュッと丸めた。
「さぁ、それでは、黒板の前にあるダンボール箱にその紙のボールを入れてください。ただし、今座っている席から離れてはいけません。入れられなかった方は、再挑戦してください。はい、どうぞ」
前の席に座るぼくは、簡単に入れることができた。しかし、後ろの席の人は容易には入れられないようだ。なんだ、このゲームは。後ろにいる人が不利じゃないか。すると後ろから女性の声が聞こえた。
「前の席の方が有利ですよね。不公平ではありませんか?」
先生は、にこりと笑って、「良い質問ですね」と言った。
「皆さん、座席から黒板までの距離が何を意味すると思いますか?……投げたボールをあなただと考えてみてください。前方に座っている人はセクシャルマジョリティである異性愛者や社会的優位といわれる男性、経済的に恵まれた家庭環境などの特権をもった人で、後ろにいくほどそうではない環境の人ということになります。皆さんは同じ紙なのに、座っている位置によってダンボールに入れられない。つまり、発言が通らないのです」
教室は静まり返った。
「前列に座っている皆さん、一度、後ろを振り返ってみてください。前だけ見ていると、自分が優遇されていることに気が付きませんよ。特権的な立場にいることを理解し、後列の人にできることがなかったかを考えてみてください。大多数の側で、やすらぎに身を任せて胡坐をかいていないか、今一度、考えてみてほしいのです」
恐る恐る振り返った。K子がぼくを見ていた。少し、悲しそうな顔で。
「車は便利な乗り物ですが、ときに人や環境を傷つけます。ドライバーというあなたが正しい知識や理解をもっていなければ、車は容易に牙をむきます。それは、ジェンダーの認識も同じことがいえるでしょう。この2週間、多くを学び、ご自身の免許証を選んでいただきたいと思います」
その後、立花先生は今後の流れなどを説明して、去っていった。一番痛いところを突かれた気がした。ぼくは、K子のことが好きなのに、自分と違うというだけで悲しいと思ってしまったから。
ぼくは勢いよく席を立って、K子の席へ向かった。
「おい、朝野」と、真田の声がする。
K子がぼくを見上げた。
「K子さん、免許証の色が違っても、ずっと仲良くしてくる?」
K子はニッと笑う。
「色なんてどうでもいいんだよ。あさぴーの好きな水色にしようかな」
すると、真田が後ろから言う。
「水色の免許証は、ゲイだから」
3人は笑いながら、教室をあとにした。
参考文献:『これからの男の子たちへ』太田啓子
お読みいただきありがとうございました! いい記事を書けるよう、精進します!