忘却と記憶の狭間で-深居優治東京2days-

深居優治

11月5日 レテの救済 

11月6日 ムネモシュネに溺れて

東京での2夜を観て遅ればせながら。


11月5日 レテの救済

レテは黄泉の国にある川の名で川の水を飲んだ者は完璧な忘却を体験する。

この日を通して感じた印象は、密度の濃い重い鉛のようなそれでいて静謐な物体が心の底の方に溜まっていく感覚。

それはとても秘密にしておきたい感情だった。

最後の船の何語ともつかない言葉の羅列の後、「理解した順に物事は死んでそれぞれの容れ物事に合うように変わってしまう」という歌詞が続くが、つまりはその言葉の羅列が理解をするということに対するアンチテーゼのようなものなのだろうか。そんなことを思った。

最後の船では「ここはどこでもない 僕は誰でもない 君は何でもない 誰のものでもない ただそれだけのことが虚しい 『まるで悪夢みたいだと思った。』」と序盤の歌詞であるのだが、歌詞の最後でそれに答えている。

「ここがどこであろうと 僕が何者であろうと 同じ夢の中に居られるなら それが悪夢でも構わない。」

この日の演目を観て同じ闇に堕ちて行くとしても誰かと共になら、それはある種救いになるのかも知れない。そんな考えがよぎる。

全ての物事には終わりが来る。

演目「わるいゆめらがひとめいて」

涙と共になにか心の奥に長年刺さっていた棘がすっと抜けて流れていくのを感じた。


11月6日 ムネモシュネに溺れて

ムネモシュネはレテの対極この水を飲むと記憶を忘れないようになるらしい。

この日僕が得た感情も前日とは違い、記憶に苛まれる感覚。頭の中を様々な記憶が巡り苦しかった。

演目「わるいゆめのなかで」

本当にその通りだった。

無幻劇から始まった曲たちは、眠りや夢を語っていて記憶にも夢にも苦しめられている。そんな感覚を思い出した。

君という雨の歌詞も、今深居さんが歌うように変わっていて。

忘却、記憶の順での2夜は、全て忘れてしまえたら良いのにと願いつつもどこか記憶に縋っているようなそんな印象を受けた。

改めて深居優治に代わる存在は僕の中ではこれまでも、これから先も現れないことを痛感させられた。

もし、彼がいなくなってしまったらその代わりを探し続けて、見つからなくて、心にぽっかり穴が空くだろう。

あまやどり☂️