【小説】さよなら、ロザリアン(4)
オープンガーデンの二日目が始まった。
今日は行列こそなかったものの、多くの人が訪れていた。二日連続で来ている人もいるようで、翔は何人かの来場者に見覚えがあった。
ただ、今日は三脚や一眼レフを持った人が多いような気がする。翔は昨日と同じようにバラの鉢の前でマップを配りながらそう思っていた。
ガーデンが開放されて一時間ほど経った頃だった。マダムが困った顔で翔のところにやってきた。
「翔くん、今日は中で手伝ってくれるかしら」
「どうかしましたか?」
「今日は写真を撮る人がたくさんいて、全部見きれないのよ」
「わかりました」
翔は椅子から立ち上がり、そこにマダムが例年使っているという『ガーデンへようこそ マップをご自由にお取りください』と書かれた札と、マップの入ったクッキーの空き缶を置いた。
見れば、マダムはもうガーデンへと引き返している。よっぽど困っているらしい。
翔はマダムを追いかけるようにしてガーデンへ走っていった。
ガーデンに入ってみて、翔にもマダムが慌てていた理由がわかった。
植物そのものの写真を撮っている人がほとんどだった昨日と違い、今日はバラを背景にして人物やぬいぐるみを撮っている人がかなりいる。植物にかなり近づいている人も何人か見られた。
バラや花が好きというより、『映える』写真を撮るのが好きな人が多いのかな。翔はそんな印象を抱いた。
「すみません、それ以上はバラに近づかないようにしていただけますか」
マダムの声がガーデンの奥のほうで聞こえた。
庭じゅうを飛び回って、そういった人たちが植物を踏み荒らしたり折ったりしてしまわないかチェックしているようだ。たしかに、これはマダム一人では手が足りない。
翔は事情を察して、マダムの手が回っていないガーデンの入り口付近を見まわした。
ちょうど、二人組の男が三脚を立てて、持ち込んだフィギュアを撮影しているのを見つけた。三脚がその根本に植えられた青い花にかかっている。
「申し訳ありませんが、そこに三脚を立てるのはご遠慮いただけますか。足元のアジュガが潰れてしまいますので」
「すみません」
「ご協力ありがとうございます」
二人は三脚を片付け、カメラを手持ちで撮影し始めた。それを見届けた翔がその場を離れようと振り返ると、すぐ後ろにマダムが立っていた。
「ありがとう、助かるわ。それに、植物の名前を覚えてくれたのね。すごい」
「あ、いえ。マップを見て印象に残った名前しか」
翔は早口でそう言った。照れ隠しだった。こうやって正面から褒められるのは子供の頃以来で、どうも気恥ずかしい。
「いいのよそれで。興味が出れば、自然に覚えられるから。みんな唯一無二の個性を持った、美しい子ばかりよ。もっと知ってくれたら嬉しいわ」
マダムは嬉しそうにそう言うと、翔に背中を向けてガーデンを見渡した。
その時だった。
ガーデンに一人の女性が入ってきた。
様々な色彩にあふれたガーデンの中でも、その姿はひときわ目立っていた。髪も、大きなつばが印象的な帽子も、着ているワンピースも黒一色だったのだから。
翔はその女性に釘付けになってしまって、一瞬固まった。見た目のインパクトもそうだが、女性がそれと一緒にまとっている周りを圧倒する雰囲気のせいだった。
しかし、翔はすぐに自分の仕事を思い出した。
あれはコスプレかもしれない。そういう撮影をマダムは許可しているのだろうか。確認しないと。
そう思って、マダムを呼ぼうと口を開く。しかし、翔が声を出すよりも早く、黒ずくめの女性がこう言った。
「元気そうね、英理衣」
名前を呼ばれたマダムは、音がしそうな勢いで振り向くと、ぱっと顔を輝かせた。
「蘭!」
そして、少女のように嬉しそうな顔で黒尽くめの女性に駆け寄ると、そのままハグをした。
「どうしたのよ急に。来るなら教えてよ」
「たまにはサプライズもいいでしょ」
そのままマダムはその女性と楽しそうに話し始めた。あれほど気にしていたガーデンの様子もそっちのけだ。
見た感じ、蘭と呼ばれた黒ずくめの女性の方はマダムよりかなり若いようだ。四十代くらいに見えるが、歳の離れた友達だろうか。
翔は好奇心からつい話しかけてしまった。
「マダム、その方はお友達ですか?」
「ああ、紹介するわ。こちら、翔くん。今年のオープンガーデンを手伝ってもらってるの。それから、彼女は蘭。魔女よ」
「えっ」
マダムの言葉が理解できずに混乱する翔に、蘭と呼ばれた女性が追い打ちをかけた。
「アンタも魔女でしょ、英理衣」
魔女なんて言葉がこんなにカジュアルに出てくる会話なんて初めてだった。
ぽかんとした顔で二人を見ている翔に、マダムは笑顔で説明した。
「昨日、イギリスで魔術を勉強したって言ったでしょう。蘭はその時の、姉弟子みたいなものなのよ」
「よろしくね、青年」
「はあ、よろしくお願いします」
翔はそんな間の抜けた返事しかできなかった。
昨日の話は冗談だとばかり思っていた。もしかして、二人して自分をからかっているんだろうか。
「蘭、せっかく来たんだから、私のバラにも会ってやってちょうだい。案内するわ。翔くんは入口のほうをお願い」
「あ、はい」
気づいたときには、ガーデンの人出もだいぶ落ち着いていた。
翔は頭の中を疑問符でいっぱいにしたまま、ガーデンを後にした。
翔はガーデンの入口にある自分の定位置に戻ると、そのまま来場者を誘導する仕事に戻った。
今日は昨日に比べるとかなり人出が少ない。あまりすることもないまま昼の休憩を終え、気づけばガーデンの開放時間もあと一時間ほどになっていた。
マダムはずっとガーデンに入り浸りだ。きっと、来場者と話をしているか、あの魔女だという蘭という女性と話し込んでいるのだろう。
初夏の日差しは柔らかく、バラの香りに包まれながらただ座っていると、意識が次第にふわふわと眠りに誘われていく。昨日も教科書を眺めるだけ眺めて夜ふかしをしていた翔は、その誘いに屈してしまいそうになった。
眠気覚ましも兼ねて、マダムから昨日世話を頼まれたバラの観察でもしようか。翔がそう思って椅子を立った時、背後から声をかけられた。
「おい。あれいるか」
「はい?」
翔が振り返ると、そこには中年の男が立っていた。翔より背は高くないが、がっちりとした体つきをしている。腿のあたりに大きな外ポケットがついたグレーのズボンは、翔の父が仕事で着ている作業着によく似ていた。白い長袖のポロシャツのポケットには、くしゃくしゃになったタバコのケースが入っていた。
「野澤英理衣だよ。いるのか、あっちの庭に」
男は全身から不機嫌を振りまきながら、礼儀が一切感じられない口調でそう言うと、顎でガーデンの方向を指した。
「ガーデンにお越しの方ですか? それならこちらのマップを」
「ああもう、わかんねえ奴だな。もういい」
翔が渡そうとしたマップを手で払いのけると、男は足早にガーデンに向かおうとする。
「あの、ちょっと」
嫌な予感がして、翔がその後を追いかけようとした時だった。
「うわっ、なんだお前」
男がそんな声を上げて歩みを止めた。
翔が追いついた時、男の前には蘭が立っていた。やはりあの黒ずくめの見た目はインパクトがあったようだ。
「あら、こんにちは。英理衣のお友達ですか?」
蘭は男の顔を見ると、動じることなくそう微笑んだ。切れ長の瞳と唇が三日月のような曲線を作る。さっきは魔女の話で混乱して気づかなかったが、彼女もマダムと同様に人目を引く整った顔立ちをしていた。
「俺はあいつの弟だ、弟。義理のな」
男が不機嫌を吐き捨てるように答えた。
それを聞くと、蘭はゆっくりとうなずいてみせた。
「ああ、英理衣から聞いたことがあります。ですが今日はあの子、忙しいようなので」
そこで言葉を切ると、蘭が右の頬に右手をあてがう。人差し指、中指、薬指にそれぞれはめられた、大きな宝石のついた指輪がよく見えた。
「どうか・お引き取りお引き取り・ください」
蘭は妙な調子をつけてそう口にした。人差し指にはめられた指輪が陽射しを反射したのか、きらりと光る。
変な言い方だと翔は思った。「お引き取りください」じゃなくて、「お引き取りお引き取りください」?
そんな言葉を浴びせられた男の方は、一度びくっと体をすくませた。今度こそ怒鳴りだすのではないかと翔は身構えたが、男の反応は意外なものだった。
「そうかあ。なら帰るかあ」
先ほどまでの不機嫌さはどこへやら、惚けたようにつぶやいたのだ。そして、蘭に言われた通りに踵を返して敷地の出口へ向かっていった。
「あの、蘭さん。今のって」
翔は蘭に駆け寄ると、恐る恐る尋ねた。
男の様子は明らかにおかしかった。あんなに攻撃的で、会話もろくにできなかった人間が、急に大人しく言うことを聞くなんて。それを引き起こしたきっかけは、どう考えても蘭の不思議な言葉だ。
蘭は頬に当てていた手を戻すと、事も無げに言った。
「魔術よ。あなた達普通の人が想像しているのとは違うでしょうけど」
翔は何と言葉を返せばいいのかわからなかった。魔女や魔術なんて実在するとは思えない。けれど、魔術くらい突拍子もない要素でも使わなければ、さっきのことの説明がつかないような気もした。
そんな翔を見据えて、蘭は得意げな顔で言った。
「本来、魔術というのは人と人との繋がり。人脈のようなもの。人と人との繋がりって、ときどき奇跡みたいなことができるでしょう。それをちょっと応用すると、あんな感じのことができるの」
人脈がその人が持つ以上の力を出すということは、なんとなく理解できる。それを応用すると人を思ったように操れるというのもわからなくもないが、たぶんさっき見たようなことではない気がする。
翔が首をかしげているのを見て、蘭がため息をついた。
「さっき、私が同じ言葉を重ねたのはわかった?」
「ええ」
「あれが魔術の基本。声を重ねていくことで、望むことを作り出すの。今は私一人だったから同じ言葉を二度言って代用したけれど、複数の人間で同じことを言うのが本来のやり方。重なる声が多ければ多いほど、より大きなものを動かせる。だから、魔術っていうのは人と人との繋がりなのよ」
「はあ」
わかるようだけど、わからないな。翔はそう思った。
同じことを言う人が多ければ多いほどいいだなんて、政治家が政党を作る理由と同じだ。それが魔術だというなら、政治家だって魔術を使っていることになるのではないか。どうも納得がいかなかった。
翔が蘭の話に頭を悩ませていると、ガーデンからマダムが出てきた。
「蘭、どうしたの? 他のお客様と話をしているうちにガーデンからいなくなるなんて。探したのよ」
「あら、ごめんなさい。バスルームを借りようかと思ってこっちに来たのよ。だけど、いろいろあって今はこの青年に魔術の説明をしていたところ」
「いや、そうじゃなくて。マダムの義理の弟さんだという方がいらして、それで」
事情の大部分を端折った蘭の説明に、翔は慌てて補足した。
「弟が? そうだったの」
翔の説明を聞いて、マダムは驚いた顔でそう言った。その後、一瞬だけ顔を曇らせて黙り込んだが、すぐにいつもの明るい表情に戻った。
「それで、蘭が魔術を使って追い返したのね」
「そうみたいです」
「そうだと説明したでしょう」
それを聞いたマダムはため息をつくと、蘭に向かってたしなめるように言った。
「だめじゃない、そんなにわかりやすく魔術を使うなんて。翔くんが驚いてるわよ」
「魔女が空を飛んだり、怪しい薬を作ったりはしないって、若い世代にも啓蒙したほうがいいと思って」
蘭がしれっとそう言い返すと、マダムはもう一度ため息をついてから、翔にいたずらっぽくこう言った。
「けれど翔くん、怪しい薬ってのはあながち嘘でもないのよ」
「えっ」
「こう見えて蘭は私よりも歳が……」
「英理衣」
蘭が強くたしなめるようにマダムの名前を呼んだ。
「ウップス、ソーリー」
マダムが笑って肩をすくめた。
それを聞いた翔は蘭を凝視した。まさか、この四十代くらいの女性が、実はマダムよりも年上だったりするのだろうか。もし本当だとしたら、美魔女なんて言葉で説明がつくレベルには思えない。まさか、そんな。
「じゃあ、バスルーム借りるわね。鍵を貸してちょうだい」
蘭はそう言うと、マダムから家の鍵を受け取り、中に入っていく。
それを見送ってから、マダムは改めて翔に向き直ってからぱちん、と手を叩いた。
「さあ、今日のガーデンはそろそろおしまいの時間よ。翔くんはそのバラに水をあげたら、ガーデンの整備を手伝ってちょうだい」
「はい」
マダムは帰っていく来場者たちに挨拶をしながら、入れ違いにガーデンへと消えていった。
魔術なんていうものが本当にあって、マダムも魔女だというなら、さっきと同じようなことができたりするのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、翔は今日も一日自分の後ろにいたバラの世話を始めたのだった。
バラの世話を終えてガーデンへ行くと、マダムは忙しく植物の水やりをしていた。
「翔くん、雑草抜きお願いしてもいいかしら」
「わかりました。マダム、蘭さんを見送らなくていいんですか?」
「私、あの子にちょっと込み入った話があって来たの。バラ仕事が終わるまで待っているところ」
「うわっ」
いきなり背後で声がして、翔は驚いて飛び退いた。見れば、すぐ後ろに蘭が立っている。いきなり現れたのかと思うくらい、全く気配を感じなかった。
蘭はそんな翔の様子など意に介さない様子で、翔にこう言い放った。
「さあ青年、仕事を手伝ってあげて。私の待ち時間が短くなるわ」
「はい」
この人もある意味貴族みたいだな。そう思いながら翔は手箕を片手にガーデンの奥へ雑草を探しに行った。
ガーデンの雑草抜きは神経を使う。ガーデンにはバラと、それを引き立てる大小さまざまな植物がパズルのように植えられているからだ。雑草とそうでない植物を見分けるのも大変だし、そのパズルのピースを傷つけないようにしなければならない。
明るい黄緑色をしたヒューケラの根本に生えた雑草を翔が慎重に抜こうとしていると、それまでオリーブの木の下のベンチに座っていた蘭がこちらにやってくるのが見えた。
「あの子、私よりもよっぽど魔術の才能があったのよ」
翔のもとにやってくるなり、蘭はそんな話を始めた。
「けれど、途中で勉強をほったらかして、日本に帰ってしまったの。惜しかったわ。一緒に学んでいた皆があの子の才能を認めていたし、何より皆あの子のことが好きだったから」
「そうなんですか?」
マダムが誰にでも好かれるというのは翔にもよくわかっていた。
だが、蘭がこんな話をするのは意外だった。蘭のことはまだ全然知らないが、今日接していた感じだと誰かを手放しで認めたりする人ではなさそうだった。
それだけ、マダムが魔女として逸材だったということなのだろうか。辞めてしまったことを周りから惜しまれるほどの。
自分はこうして誰かに惜しまれたことがあっただろうか。夕日に照らされた蘭の残念そうな顔を見て、翔はマダムが少し羨ましく思えた。
「だって、適性があるってだけじゃ続かないでしょう?」
気がつけば、マダムも翔のところへ来ていた。ちょうど翔と蘭がいる場所に植えられたダブル・デライトの花がら摘みに来たらしい。株の前でかがむと、花をそっと撫でてから、ハサミで切り落としていく。
まだ咲いている花を切り落としてしまうこの作業を、昨日初めて見たときには驚いた。けれど、花を放置しておくと茶色く腐ってしまったり、地面に落ちて害虫や病気の原因になったりしてしまうらしい。
「いちばん美しいときに、美しいまま終わらせてあげる。それがロザリアンとしての私の愛し方なのよ」とはマダムの言葉だ。まだきれいなものは家に飾ったり、乾燥させてポプリにしたりと楽しみ方があるそうだが、やはり少しもったいないと翔は思ってしまう。
「魔術はおもしろかったけれど、私はやっぱりバラが好きで、日本で自分だけのガーデンを作りたかった。だから魔術じゃなくてバラを選んだの」
花がらを摘む手を止めないままであっけらかんとそう言ったマダムを、蘭が恨めしそうな、悔しそうな目で見つめている。
「私は呼ばれたのよ、バラに」
その視線を真っ向から受け止めて、マダムは静かに言いきった。
翔はマダムのその様子に、強い決意のようなものを感じた。
「バラに呼ばれた」か。そういえば、英語でコーリングといえば「天職」という意味もあった気がする。マダムらしい遊び心のある言い方だ。
「まあ、あんたが選んだのならそれが正解なんでしょうね」
諦めの表情で蘭は言った。
これだけ惜しまれても、マダムは自分の選んだバラの前で笑顔を見せていた。
「そんなに簡単に選べるものなんですね」
その言葉に、マダムと蘭が同時に翔を見た。
「いや、あの、失敗したりとか、行き詰まったりしたらどうするのかな、とか思ってしまいまして」
どうしてそんな簡単に選べるんだろう。選んだものがうまくいかなかったら? 他に選ぶものもなかったら?
しどろもどろになりながらも、口をついて出てきてしまった言葉に翔自身も驚いていた。自分の事情を知らない人たちにこんんなことを言ってもどうしようもないのに。
「あの、すみません」
翔は頭を下げると、この場を離れようとした。これ以上二人の話を聞いていると、なにか無礼なことをしてしまいそうだった。
それを追うように蘭が言葉をかける。
「大事なのは自分が選んだということ。それは自分自身の証明だから。成功しても失敗しても誇れることよ」
「そうでしょうか」
しまった。
蘭の言葉尻に被せるように出てしまった言葉に、マダムは心配するような眼差しを、蘭は眉間に皺を寄せた鋭い眼光を翔に投げかけた。
「ええと、雑草抜き終わったので、捨ててきますね」
翔はどうにか顔に笑顔を貼り付けると、雑草の入った手箕を抱え、逃げるようにガーデンを出ていった。
雑草をコンポストに捨てていると、マダムも手箕を抱えて花がらを捨てにやって来た。
「すみません、マダム」
翔が手を止めて再び頭を下げると、マダムは笑った。
「蘭はその場で怒って、その後はなにも覚えてないタイプだから大丈夫よ。私としては……そうね、もしも話をする相手がいなかったらいつでもどうぞ、といったところかしら」
「ありがとうございます」
恥ずかしくなって、翔はまた頭を下げた。
「ユアウェルカム」
マダムはそれにゆっくりとうなずいて応えると、二人で作業に戻った。
しばらく無言で作業していたが、それが気まずくなった翔はさっき聞きそびれたことを尋ねてみた。
「あの、蘭さんが帰らせた人なんですけど。マダムの義理の弟だって言ってたんですが本当ですか?」
「ええ。亡くなった夫の弟よ。少し……いろいろあってね」
マダムの顔が一瞬さっと曇ったが、すぐにいつもの笑顔になった。
さっき義理の弟の名前が出た時と同じ反応だ。マダムにもこんなふうに言葉を濁してしまうようなことがあるなんて。
不謹慎だとは思ったが、翔は少し安心した。この人もバラの生育状況以外に、人間関係なんてありふれたことで気に病むことがある。自分と内容は違えど、つまびらかにはできない部分を心の中に抱えているのだ。
「さあ、今日はこれでおしまい。ご苦労さま」
二人分の空になった手箕を片付けると、マダムは玄関の方へ歩き出そうとした。
その瞬間、その上半身が大きく傾く。家の壁に手をつき、マダムはそのまま動きを止めてしまった。大きく肩で息をしながら何かをこらえているように体を強張らせている。
いきなりのことに、翔は驚いて駆け寄った。
「マダム? どうしましたか?」
「ちょっとめまいがしたの。今は落ち着いたわ。今日は、ガーデン中を動き回って疲れてしまったみたい。蘭の話が終わったら、早めに休むことにするわ」
マダムは翔の顔を見ずにそう言うと、玄関へ向かって歩いていった。
「今日もありがとう。明日もよろしくね」
心配で玄関まで側について歩いた翔にそう言うと、マダムは家の中へ入っていった。
「お疲れさまでした。水分をよく取って、しっかり休んでください」
マダムがたちくらみを起こした原因は熱中症か脱水症、それとも両方だろうか。今日は気温もまあまあ高かったし、疲労が重なったのが良くなかったのかもしれない。他にめまいで考えられる原因はなんだろう。
結局、家に帰るまでの時間を全部使って考えても、翔にはそれ以上の推測はできなかった。