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【小説】さよなら、ロザリアン(5)
マダムのオープンガーデンを手伝う最後の日がやって来た。
なんとか目覚ましに気がついた翔は、まだ眠気にとっぷりと浸かったまま朝食の席についた。テーブルにはすでにトーストとコーヒー、昨日の残りのポテトサラダが並んでいる。
「おはよう、翔。ずいぶんと眠そうね」
コーヒーを飲んでいた母は、翔を見るなりそう言った。
「昨夜、ちょっと調べ物してて」
昨日帰ってきてから、翔はずっとめまいを引き起こす病気について調べていた。マダムのことが気になったからだ。
検索して出てきたいくつもの病名をさらに調べたり、大学のテキストを読み返したりしていたら、すっかり寝る時間がなくなってしまったのだった。
「マダムの手伝いは今日で最後なんだろう? そんな状態で平気なのか?」
そのやりとりを聞いた父も、新聞から顔を上げて翔を見た。
大丈夫だと言う代わりに、翔から出てきたのは大きなあくびだった。父親は何も言わないものの、「おいおい、だらしないな」と言いたげな顔をしている。
「でも、大丈夫か」
その父の隣で翔の顔をまじまじと見つめていた母が、ふっと笑みを漏らした。
「なんかちょっといい顔してるから。ひどい顔だけど」
「なにそれ、どっち」
翔もつられて笑いながら、熱いコーヒーを口にした。
そうは言ったものの、母が言うことも少しわかる。ひどく眠たいのに、心はどこかすっきりとしているからだ。
今日で最後、しっかり手伝ってこよう。そう思いながら翔はトーストを食べ始めた。
その日のガーデンは平和そのものだった。
マダムの体調は心配だったが、本人は「一晩寝たらすっかり良くなった」としか言わなかった。
実際、翔の目から見ても元気そうだった。よく笑い、よく話し、忙しくしていた。
それに安心したこともあって、翔はのんびりした気分でマダムの家の前とガーデンとを往復し、花々を眺めて過ごした。
三日目ともなればやるべきことも把握しているから、仕事の上で困ることもない。それに、今日はマナー違反をする来場者もいなかった。皆、マダムのバラをその目に焼き付けようとしているように見えた。
あっという間に時間は過ぎ、今年のオープンガーデンが終了する時間になった。
翔は最後まで名残惜しそうにいた何人かの来場者たちをガーデンの外、あのピエール・ド・ロンサールのアーチまで案内した。
アーチの前にはマダムが立ち、初日のように来場者ひとりひとりに応対した。ガーデンの終了を惜しむ言葉を伝える人、感謝の挨拶をする人、庭で撮影したバラの写真を見せる人、バラの育て方のヒントを教えてもらおうとする人。それぞれに丁寧に答えてから、マダムはこう言って門を閉めた。
「皆様、今年も本当にありがとうございました。来年も私のバラたちに会いに来ていただけたら幸いです」
やはりこの人こそがマダム・ロザリアンだ。咲き誇るバラの中で胸を張り、笑顔で人々を見送る姿を見て、翔は感服しきりだった。
「お疲れさまでした」
家の前まで二人で戻ってから、翔はマダムに声をかけた。
それを聞いて、マダムは安心したように大きく息を吐いた。
「翔くんがいてくれて本当に助かったわ。ありがとう。バイト代は帰る時に渡すわね」
来場者に見せていたのとは違う、力の抜けた笑顔だった。凛としたバラのような気品ある姿とは違う、けれども目を引く華やかさがある。さながら、バラの傍らで咲いているクレマチスのようだった。
「はい。それじゃあ、最後のガーデン整備ですね。まずはあのバラを見てきます」
「お願いね」
翔は昨日と同じように、三日間一緒に過ごした薄紫色のバラの世話をした。土の乾き具合を確認し、葉や茎に虫がいたり、変色がないかを観察した。
そういえば、このバラのことはよく知らないな。翔は葉の一枚一枚を確認しながらそんなことを思った。ガーデンのバラはマップに名前と簡単な説明が書いてあったが、これはマダムが家の裏から持ってきたものなので載っていない。だから、ずっと側にいたのに名前もわからなかった。
条件反射のようにズボンのポケットからスマホを取り出したが、すぐに思い直して再びポケットにしまった。
スマホで写真を撮って画像検索にかければ、だいたいのことはわかるだろう。けれど、それではダメだと思った。
検索してわかるのは、図鑑に載っているような『情報』だけだ。それだけではなく、マダムがなぜこのバラを選んだのか、どのくらいこの家にあるのかといった『物語』も聞いてみたい。そう思ったのだ。
バラの『物語』だなんて、自分もだいぶロザリアンに感化されてきたのかもしれない。バラの世話を終えた翔は苦笑しながらガーデンへと向かった。
「マダム?」
マダムを探してガーデンに一歩足を踏み入れると、バラたちは変わらず美しい姿を見せていた。その足元にはタイムやカモミール、ネペタやアジュガが絨毯のように広がり、背後からはおとぎ話の国に咲いているようなジギタリスやデルフィニウムたちが屏風のように引き立てる。
そんな植物たちを愛でている最中のはずのこのガーデンの主人は、真紅の花をいくつも咲かせたパパ・メイアンの前に倒れていた。
「マダム!」
翔は慌てて駆け寄った。
マダムは額を地面に擦り付けるように体をくの字に曲げ、うめき声を上げている。その横顔は苦しそうに歪み、浅く早い呼吸を繰り返していた。
「マダム、どうしたんですか? 大丈夫ですか、聞こえますか?」
翔が声を掛けると、頭がかすかに動いた。呼びかけにうなずいているのか、苦しさに耐えかねて体が動いてしまっているだけなのか判断がつけられない。体に触れようとしたが、ひときわ大きなうめき声とともに体をすくませたことに驚いてしまってそれもできなかった。
どうしたんだろう。どうすればいいんだろう。翔はしばらくおろおろとマダムを見ているしかできなかった。
「そうだ、救急車」
ようやくそこに思い至った。ポケットからスマートフォンを取り出してから、落として、拾い上げて、ロック解除に失敗して、というのを二回繰り返した末にやっと119番を押す。完全に平静さを失っていた。
電話がつながった瞬間、翔は一気にまくし立てた。
「すみません、救急です! 女性が倒れてしまって、うめき声を上げるばかりで呼びかけに答えなくて」
「女性が、倒れたんですね。その方の年齢はわかりますか?」
応対した男性は、一語一語はっきりと発音しながら問いかけてきた。
「年齢はたぶん六十代か七十代だったと思います」
「だいたいでいいので、倒れてからどれくらいの時間が経っているかわかりますか?」
「ええと、おそらく五分……十分は経っていないくらいだと。あっ、住所。ええと、住所は」
翔はスマートウォッチで時間を確認しながら、マダムの庭にいるということも忘れて、住所がわかるものを探して辺りを見回した。
「大丈夫ですよ、携帯電話から位置情報を取れますから。落ち着いてください」
電話の向こうで男性がそう言い聞かせる声も、翔のパニックを抑えることはできなかった。
「はい。でも」
どうしよう。早く救急車を寄越してほしい。それ以外のことを考える余裕がない。
「戻してしまっているとか、どこかを痛がっているとか、見てわかることは他にありますか?」
「苦しそうにうめき声を上げているんですが、それ以外はよくわからないんです」
頼むから助けてほしい。その言葉が喉元まで出かかった時、ようやく翔が聞きたかった言葉が聞こえてきた。
「わかりました。そちらに救急隊を向かわせます」
「ありがとうございます、お願いします!」
「女性がもし戻してしまったら、顔を横にして、出たものが喉につまらないようにしてあげてください」
「はい」
電話を切ると、翔はマダムの耳元に呼びかけ続けた。
「マダム、聞こえますか? 救急車を呼びましたから、大丈夫ですよ」
泣きそうになってきたのを必死にこらえながら、翔は同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。救急車が来るまでの十分足らずの間は、永遠みたいに長かった。
救急車のサイレンが聞こえてくると、翔は家の前まで走っていって救急隊を誘導した。
マダムは手際よく、丁重にストレッチャーに乗せられた。その顔はなおも変わらず苦しそうだ。
ここから近い市民病院に搬送先が決まるまで、そう時間はかからなかった。自分は知人であること、マダムが一人暮らしであることを伝えると、病院まで付いてきてほしいと言われて翔も救急車に乗った。
救急車が病院に到着すると、すでに数人の看護師や医師が待っていた。マダムが乗ったストレッチャーはすぐに救命室へと運ばれていく。ドアが閉められると、中は一気に騒がしくなった。
マダムを無事病院に連れてくることができた。そんな安堵の気持ちが押し寄せる。平静が戻ってくると同時に、どうしようもない恥ずかしさと後悔がこみ上げてきた。
わかることはあるかと聞かれて、「よくわからない」だなんて。一年間、医者になるために学んだはずなのに、自分は何もできなかった。救命処置の勉強もしたのに、ただ狼狽えながら救急車を呼ぶことしかできなかった。
救命室は病院の端にあるのか、しんと静まり返っていた。
ときおり遠くの方から誰かの足音や、チャイムの音が聞こえた。音がするたびにそちらに目をやると、忙しそうに早足でどこかへ行く看護師や、機器を運ぶ検査技師らしき人や、点滴のスタンドにすがりつくように歩く入院着姿の老人がいた。
この場所で、することもできることもないのは自分だけだ。翔は救命室の前に置かれた長椅子に座り、拳を握りしめたままうつむいた。
「あの、ご家族の方ですか?」
声に顔を上げると、クリップボードを抱えた看護師の女性が翔を見ていた。
「いえ、違うんですけど、あの、知人です」
「今から検査をしますが、おそらくこのまま入院になると思います。検査や入院には保証人による手続きが必要なので、ご家族に連絡して、こちらの書類をお渡しいただけますか。手続きはこの廊下をまっすぐあちらに行った先、総合受付というところでご案内しています」
保証人。翔はそんな言葉を病院で聞くとは思っていなかった。
病院に連れていけばそれで終わりだと思っていた。自分が膝の手術をした時には、親がすべて手続きをしてくれていた。だから、何も知らなかった。
「えっ、あの、彼女は……」
クリップボードをめくり、何枚もの紙を選んで抜き出している看護師を見て、翔が慌てて事情を説明しようとした時だった。
「後はこちらで引き受けます」
急に横から聞こえた声は、聞き覚えのあるものだった。驚いて振り向いた先には、見覚えのある黒ずくめの女性が立っていた。
「蘭さん?」
翔が名前を呼ぶのを無視して、蘭は看護師に名刺を差し出した。
「私、『一般社団法人やどりぎの会』代表の平木と申します。当団体では、一人暮らしの方の保証人代行をしておりまして。彼女から依頼されて、身元保証人を引き受けております。今後、同意や緊急連絡が必要な場合は、私にご連絡ください」
看護師はぽかんとした顔で蘭と名刺とを交互に見ていたが、ハッとなにかに気がついたように名刺を受け取った。
蘭が笑顔で手を差し出すと、看護師は慌ててクリップボードから抜き取った紙の束を渡した。
「それでは、手続きをしてきますね」
「よろしくお願いします」
そう言うと、看護師は救命室へと戻っていった。
「青年、付いてきなさい」
廊下に翔と蘭の二人きりになった途端、さきほどまでの柔和な口調から一転、昨日と同じ調子に戻ってそう言った。
「はいっ」
その口調に断れないものを感じて、翔は勢いよく立ち上がると蘭の後に付いて受付へ向かったのだった。
手続きはとにかく数が多く、読まなければならない書類がたくさんあった。それから輸血に検査、手術の同意、入院着のレンタル契約、入院に必要な持ち物や病棟のルールの説明。
初めて見聞きする内容に戸惑う翔をよそに、蘭はそれを慣れた様子でサインしていった。
手続きが終わり、後は入院する病室が決まるまで待つように言われて、二人は受付前のロビーに移動した。もうすっかり日が暮れていた。ロビーにはほとんど人がおらず、何人かの職員はもう帰り支度をしている。
「昨日、あの子と契約しておいてよかったわ。けれど、昨日の今日にもう呼ばれることになるなんて」
蘭がそう言ってため息をつく。
「込み入った話」とは、保証人としての契約を結ぶことだったのだろうか。翔は昨日のマダムの話をちらりと思い出した。
「蘭さん、どうしてマダムがここにいるってわかったんですか」
翔はマダムが倒れているのを見つけてから、救急車を呼ぶ以外はどこにも連絡していなかった。蘭が保証人だということは知らなかったし、それ以前に蘭の連絡先も知らない。
蘭は救命室の方向に視線をやった。
「呼んだのよ、あの子が。久しぶりに魔術を使ってね」
「マダムが?」
「そう。たぶん、救急車で運ばれる前じゃないかしら。『助けて、お願い』なんて、あの子に言われたの初めてかもしれない」
翔も救命室の方を見やる。複雑な気分だった。マダムが魔術を使えたというのも、あの苦しそうに呻いている間に助けを求めたのが蘭だったというのも。
「この先の面倒なことは私がやるから大丈夫よ。それが仕事だし」
蘭が社団法人の代表で、入院の保証人をしていたのは初めて知ったが、さっき見た病院での手続きに慣れている様子を見ると本当のようだ。マダムのことは心配だが、残念ながら自分がいたところでなんの役にも立たないだろうと翔は思った。
「それから、連絡先を教えてちょうだい」
そう言って、蘭が持っていた黒のハンドバッグからスマートフォンを取り出した。
「えっ?」
その意図を計りかねて翔は首をかしげる。すると、蘭は翔を真っ直ぐ見据えてこう言った。
「あんたは少しでもあの子に関わったのよ。気にならないの?」
「ありがとうございます」
翔は頭を下げ、自分のスマートフォンをポケットから出して連絡先を交換した。
蘭の気遣いが嬉しかった。さっきまでここにいても仕方ないと思っていた自分に、「少しでも関わった」という言葉が居場所を作ってくれたからだ。
「まあ、今のところはとりあえず家に帰って休みなさい。大変だったでしょう。詳しいことがわかったら連絡するわ」
「はい。それじゃあ、よろしくお願いします」
「青年」
出口に向かおうとした翔を、蘭が呼び止めた。
「あの子を病院に運んでくれて感謝するわ。ありがとう」
深々と頭を下げた蘭に、同じように深くお辞儀をして翔は病院を後にした。
病院を出てすぐ、翔のスマートフォンが鳴った。蘭からの連絡かと一度深呼吸をしてから取り出すと、勇斗からの着信だった。
「もしもし」
「なあ、今ヒマ? この前言ってた車、来たからさ。ちょっとメシでも食べながら見てくれない?」
嬉しそうな勇斗の声に、翔は苦笑しながら言った。
「いいよ。市民病院の前まで迎えに来てくれたら」
「病院? 別にいいけど、なんで? どっか悪いの?」
「いや、俺は平気。今説明すると長いから、メシの時に話す」
「わかった。すぐ出るわ」
勇斗との通話を切ると、翔は振り返って病院の建物を見上げた。
ゆっくり休めと蘭は言ったが、今の状態で真っ直ぐ家に帰っても休むなんて無理そうだ。今日感じたいろいろな感情をどこかでクールダウンしてやりたい、そんな気分だった。そんな時に来た勇斗からの誘いは渡りに船といったところだ。
「マダム、明日お見舞いに来ます」翔は心の中でそうつぶやいた。頭の中にはあの苦しそうな声と顔がこびりついて離れないままだった。
「えっと、ちょっと待って。情報が多すぎる」
勇斗が運転する赤の軽自動車で幹線道路沿いのファミリーレストランにやって来ると、翔はここ数日の出来事を大まかに話した。もちろん、魔術のことは話さなかったが、それでも勇斗は動揺したようにそう言った。
「お前はマダムのところでバイトをしてて、それでマダムが倒れて、救急車を呼んで病院に連れて行った。そういうことだよな」
「そうだよ」
翔は親に「夕食はいらない」とメッセージを送信しながら答える。それを見た勇斗は、不服そうな顔で言った。
「いつの間にバイトなんてしてたんだよ。せっかく帰ってきてるんだから、もうちょっといろいろ話してくれてもよくない?」
「ごめん」
翔はその勢いに圧されて、スマートフォンをテーブルに置いて詫びた。高校時代から今まですっかり疎遠になっていた勇斗が、それだけ自分との関係を大切にしてくれていることに気づいていなかった。
「なりゆきで決まったことだったし、ある意味勉強から逃げるような気持ちでマダムの手伝い始めたから、なんか言い出しづらくて」
口をついて出た自分の言葉を聞いて初めて、翔は自分が勉強から逃げたいと思っていたことに気づいた。現状を変えられるかもと思ってマダムの手伝いを引き受けたと思っていたが、自分はその思いと同じくらい逃げたかったのだ。どれだけやっても身にならない勉強から、行き詰まった自分から。
それは翔にとって新鮮な驚きだった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
店員がやって来て、水のグラスを二人分置いた。翔はメニューにさっと目を通す。
「オムバーグセットをください。サラダのドレッシングは和風でお願いします」
「かしこまりました」
メニューから顔を上げると、勇斗は目を丸くして翔を見たまま硬直していた。
「勇斗は?」
翔が声をかけると、まるで金縛りが解けたように勇斗はメニューを手に取った。
「あー、えっと、ミックスフライセット、ライスで」
「かしこまりました」
注文の確認と、ドリンクバーの案内を型どおりにこなして、店員は厨房へ向かっていった。
「へえー」
勇斗がいきなり訳知り顔でそんな声を漏らした。
「何」
「何でもない」
どうしてそんな顔をしているのか翔にはわからなかった。
勇斗はただ嬉しそうに水をひと口飲んだ後、自分の車についてこだわりを語り始めた。それを聞き、時にわざといかにも素人な質問をしながら、翔は今日一日感じていた不安を少しずつ手放していったのだった。
食事が終わった後、勇斗はなぜか自分がおごるの一点張りだった。
車を出してもらったんだから自分が払う、そうじゃなければこの前のように別々に会計しようと言う翔に、勇斗はただ
「いいから、俺が出したいんだよ」
と言って聞かず、結局勇斗に食事代を出してもらった。
帰りも勇斗は家まで車で送ってくれた。他愛もない話をしながら五分とかからないドライブをした後、勇斗は翔の家の前に車を停めた。
「勇斗、今日はありがとな」
「マダム、なんともないといいな」
勇斗が真顔でそうつぶやいた。
「うん。本当に」
心からそう言うと、翔は車を降りた。
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