私とペットと〇〇と

ペットを飼っている

普段エサをあげたり、トイレの始末をしたり、お世話をする
ペットも慣れてくれて
【機嫌が良ければ、怒らず撫でさせてくれる】くらいの距離感の関係だ

子供の頃、近所の飼い犬(当時は玄関わきや庭の犬小屋にいた)に会いに行き、「可愛い」とか「吠え方がスゴイ」とか思ったことを親や祖母に話していた
「私も飼いたい」と言ったが、家族のアレルギーを理由に希望は却下された
 飼えないとわかってから、ぐっと我慢しつつ近所の犬に会いに行き、見ていた

大人になり、ペットを飼うことにしたが、飼ったことがないので飼い方がわからない
また、昔と今ではペットに対して、社会から受ける『扱い方や振る舞い』の変化をひしひしと感じる

だから飼い方も本を読んだり、飼っている人の話を調べたり慎重に進めて、迎えた
それから数年絶ち、私とペットはだいたいリビングで1日を過ごす

基本的にそれぞれは「居る」けど互いに静かだ

ときどき、なでたりおやつをあげ、話しかけもする

その行為に対し、ペットは鳴き方のバリエーションで喜怒哀楽を示す
それを読み取りこちらが理解するという形でコミュニケーションを取っている

ただ、関係が私とペットだけだと社会性が乏しいのだ
たとえば「誕生日や迎えた日を祝う」というイベントをしてみる

新しくおもちゃを買い、ペット用ケーキを与え祝う
でもイベントはすぐに終わるし、そこまで感慨深いものでもない

そこに3歳の甥が来た

ペットに触れ、喜びはしゃぐ甥と
驚いて逃げるペット

なかなか激しいやり取りを見て、
「ペットくん、きみはこんなにジャンプできるのか」
「甥っこくん、きみは全身で喜びを表現するね」

と『誰かもうひとり入ること』でペットの普段見せない面が見られ、それが「愉快なできごと」として自分の記憶に残った

また定期検診として年1に行く動物病院で、
いつも担当の先生がお休みで、院長先生が診察してくれた

「元気だね、体重もいいね。聴診器も当てるよ」
と言いながら、すばしっこく暴れるペットをサラッと抑えつつ、聴診器を当て
「呼吸もいいよ」と褒めながら、「異常ないです」

と私に伝える院長先生の言葉や対応に
普段の飼い方で大丈夫なのだとホッとした

会計待ちの時間に、「ペットくん、診察がんばったね、先生も優しかったね」と心の中で話しけかける自分に

甥が来たときのような感情の動きが出たり、記憶に残るのはなぜか考えた

そして『私に欠けているのは人間との会話なのか』と自覚した

私とペットで完結する関係では視野が狭く、
もうひとりが入ることで生まれるのが社会性かと
実感した

そんなの当たり前だろうという意見もあるかもしれないが、私にとっては当たり前ではない

この社会性をずっと感じないまま生きてきたから

社会性の欠如にはそれなりの理由があるし、そこから回復していくには長い道のりと時間が必要だったのだ

社会性を取り戻すべく、外の世界に足を踏み出そうとするが、「できた体験の積み重ね」の反復を繰り返し繰り返しやっても、自分ひとりの力で出ることにはまだ抵抗がある

だけど『ペット+〇〇さん』だと、大丈夫みたいだ

それを応用して『好きなもの+〇〇さん』で広がる社会性を獲得できたら自分にとってまたひとつ進歩だ
応用を今、少しだけしている

0.1ミリくらいは進歩したかもしれないし、何にもなっていないくらい『ほんの少し揺らす』くらいが今の自分にはとても大きな進化で回復なのだ













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?