アメリカ村って村があるそうで
大阪にあるアメリカ村ではなく、比喩としてのアメリカ村のお話
私は地元の大学に進学したのだが、全国各地から、また海外から留学生として、いろんな人が集まった
育った環境も、家族構成も似ているような人もいれば違うなぁと感じる人もいた
まず、言葉のイントネーションが違うことに驚いた
また地域によって性格も変わるのではないかと思うくらい、なんだか性格も距離感も違う気がした
いろんな人と関わることで自分の育った環境を違う角度から視ることができた経験は良かった
私は、いわゆる団塊ジュニア世代なのだが、見えるものがある程度似ていた
流行っていたゲームや漫画など、見ていたテレビや流行りやブームなどまあまあ話が通じた
それらは、コミュニケーションの最初の「わかる、知っている」という共通認識を確認し、友人関係を作るための初手としては役にたった。
だけど、それ以上深くコミットするものではなかった。
【人と人が分かり合える】と思っていた私と
【そもそもわからないものだ】と思っている人と、
それらをした含むたくさんが価値観があることは、
あとになって理解できるようになるのだが、なぜ話が通じないのか、わからなかった
冒頭のアメリカ村の話に戻る
そういう村に行ってきた
というか大学時代の友人の実家に旅行も兼ねてお世話になったときの話
同じ日本語で話しているのに文化がまったく違ったのだ
「頼まない、頼めない、言えない」が通用しない
そこの家主に「何を飲む?麦茶?お茶?ポカリ?牛乳」と矢継ぎ早に聞かれ戸惑っている中、麦茶とサラリと答える友人
また「朝はパンにする?ご飯?納豆は好き?いる?鮭は食べられる?」
など次々質問される
そのときに
自分は、「何が好きで嫌いなのか、味覚や嗅覚を意識したことがあまりない、なぜなら身近な人に質問されなかったから」
という事実に気づいた
強烈な、文化の違いに驚きつつも
「ここでは好き嫌いをはっきり言わないといけない」
味覚から五感全て、また漫画やゲーム、スポーツなどの娯楽プラス教養など、【生きていた全般に好き嫌いを持っていい】ということをきちんと思えていなかったことを自覚した
「カラダに良いものを食べることが是」という考えの下で育ち、【好き嫌いや自分の味覚を信じる】という感覚で生きていいということに無自覚だった
それからは必死で「おいしいとか苦手だな」を練習した
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