生存報告と、そしてぼくがあした生きていくために。
ごきげんよう。
なんて一度も口では発したことがなかったけど。これからはごきげんよう、って言ってみたいと思いました。自分で書いていて。
先日、カメラを修理に出して、そしてそれが返ってきました。はるばる大分県まで運ばれて、一週間滞在して、きれいになって帰ってきてくれました。よかった。またこれで、いろいろと写真を撮れると安心しています。
最近の僕は、社会に興味があります。
社会には、高校時代から興味があったじゃないか、と言われるかもしれませんが、個人的には”社会なんてどうでもいいよね”みたいなある意味での冷笑的な感情を持っていたのかな、と振り返って思います。
社会って、社会といわれても、掴めるわけでもないし、具体的な色が思い浮かぶわけでもない。一つの観念として頭の中に固定しようとしても、ときの流れの中ですべてが毎日、毎時、毎秒変わっていくものだから。僕はそれに触れることをやめようとしていたのかもしれません。
原体験はなに?と最近聞かれることが多くなりました。すると僕は、”高校2年生のとき、中国の清華大学に行くことがあって””そのとき、出会った都市工学の研究者の熱量と、””そして彼をたきつける中華思想とそれを実現する中国政府の政策に感動しました”とすらすらと答えます。別に嘘じゃない。けど、本当というわけでもないのかもしれません。
ぼくは、ひとを社会に突き動かすものは、二つあると思っています。一つ目が、好奇心。そしてもう一つが、内発的動機。
好奇心のことを、僕は恋だとたとえています。恋って、コントロールできないものだと思っていて。ひとは世界の中で生きている限り、いつ、どこで恋をするかわからない。当たり前のように、転校先の学校で突然落ちるかもしれないし、数年、数十年と苦手だと思っていた相手の、たったひとことに恋をするかもしれない。街を歩いていて、たまたまそこにいた猫に恋をするかもしれないし、そしてこんな調子で世界には恋のきっかけがあふれているんだと思っています。写真とは、そういう瞬間を、できるだけ残しておくことだと僕は願っています。
内発的動機はなにかというと、愛だと思っています。愛って、ちゃんと整備しないとかげってしまうものだと思っていて。ちゃんと感謝を伝えるとか、このひとといてなんで自分は幸せなんだっけとか、自分にとってどんな意味があったんだっけ、とか。内発的動機とは持続的なもので、そして自分が社会に新しい価値や、問いかけを生み出し続けるために必要なものなのです。
僕は、あのとき確かに、都市工学の大学院生に恋をしたのかもしれません。けど、そこから生まれてきた愛は、もっと大きな、都市とか、社会とか、そこにいきるすべてのひとびとに、向いているし、向いていくものだと思っています。そう、自覚するまでは、”社会なんて、ねぇ。”と、冷笑的だったのかもしれません。
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最近、小さな探求コミュニティを立ち上げました。気候変動に興味のある彼と彼女と、そして職場の同僚の4人しかいないSlackですが。”メモ帳代わりに使ってくれ”と彼らには伝えているので、僕自身もツイートにもしないようなつぶやきとか、”後で読む”と永遠に積読になっている記事とか、そういうものをため込んでいます。
僕は、都市という場所にかかわり続けたいと思っています。
新宿生まれ、新宿育ちの僕にとって、新宿というまちはあまりにもおおきくて、多面的で、一面的で、そしてつながりもなく、近いはずの、一番遠い町かもしれません。
ここ最近、いろんなひとと話してみて、やっぱり”自分はこういう場所で生まれ育ったから”と語れる人は、かっこいいと思っています。その人にとってはあまり思い出したくない町かもしれないけど、それでも、そのひとの人格の基礎を構成するのは、その人が小さいころに過ごし、初めて世界を認識し始めた、その場所だから。
だから、僕は新宿という町に愛着を持ちたいと思っています。愛着というものが、新宿を離れないと生まれないかもしれないけど。それでも、この町を離れる前に、この町とかかわっていたい。自分の内発的動機が、この町のどこかにとっかかりを残せるような、そういう記憶を残してから、この町を巣立っていきたいなと思っています。
都市の話に戻ります。
そんなわけで、僕は都市に興味があります。時代は地方創生かもしれないけど、僕は都市に興味があるんです。
都市とは、なんでしょうか。日本の、中央と地方における政策とお金の一方的な流れの源泉かもしれないし、その仕組みを支えている断片的な経済の集積地のことかもしれません。
今の都市は、そうかもしれません。だけど、僕は都市というものを、一人一人の内発的動機によってつくられる、そしてそこに立ち入る人に恋を抱かせる瞬間を与えるような、そういう場であってほしいと願っています。
いまの都市は、あまりにも分断されすぎてしまった。ひとびとが寝る場所があって、ひとびとが食べ物を食べる場所があって、ひとびとが買い物をする場所があって、ひとびとが仕事をする場所がある。それぞれが電車とバスとタクシーによって結ばれて、ひとびとはその間を、ヘッドフォンをしてスマートフォンの画面を見ながら通り過ぎていく。
きっとそのひとの生活の中で、いかにそのひとが”当事者意識を持とう”とか言っていても、そのひとが目と耳をふさいで街を歩いていたら、その人は本当に都市に当事者意識を持っている、といえるのだろうか。
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幸せなのか、そうでないのか。まだ結論は出ていないけれど、この世の中には社会課題というものがあふれていて、そしてそれぞれに、アクティビストという存在が生まれるようになりました。あの問題といえばこの人だよね、と。
けど、僕は、自分が何に興味を持って、何に興味を持たないかは、自分で決めるべきことだと思っています。その人の意識が、何によって構成されるかは、できる限りそのひとが決めるべきことだと。ごく当たり前なことかもしれないけど、でも社会課題の解決主体が政治と行政に偏っていて、官僚と政治家に興味を持ってもらうためにより民衆の興味関心を焚き付けなければいけないならば、アクティビストたちは人々の意識を奪う、暴力を始めるでしょうし、それはもう始まっているでしょう。
どこまでが自由意思で、どこまでが不自由な意思なのか、それはだれにもわかりません。だけど、自分の内発的動機は、自分で作ったものだ、といえるようにはなっていたいと思う。どこか、自分の興味関心が説明できないものがあったら、それは一番僕が怖いと思うこと。
そして、都市とは、そうして生まれたひとりひとりの内発的動機が集まってつくられるコミュニティたちのフィールドであってほしい。都市という一枚の紙の上に、それぞれの興味関心をもったひとが集まり、そして街を作っていく。
ごめんなさい。まだ、ぼんやりとしか像は浮かんでいません。どういう姿が理想なのか、そしてこのことは本当に正しいのか。どうすればできるのか、まだわかっていません。そして、わかっていないからこそ、今の僕の内発的動機となっています。
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で、
探求コミュニティについて。これは、一つの実験だと思っています。一つのSlackのなかに、違う興味関心を持った人たちが集まっていく。その人たちがそれぞれの部屋で、けどお互いに見える形で記事を共有したり、今日考えたことをつぶやいていく。そういう環境の中で、どういうことが起きるだろうか。全くわからないし、実際には何も起こらずに空中分解してしまうかもしれないけど。
僕は、このコミュニティを少しずつ広げていきたいと思っています。毎月、少しずつひとを増やしていって、いつも通りの探求を続けてもらう。でも、他人の内発的動機があらわになったとき、そのひとと、その周りのひとはどう変化するんだろう。
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みたいなことが、最近考えていることです。
いろいろ書きたくなったので、ここに書きなぐっておきます。寝ているうちに思考が整理されて、また明日を迎えて、楽しく生きていけることを願って。
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