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飼い猫が死んだ。

 飼い猫が死んだ。
 今年も後ひと月を切った、よく晴れた日曜の昼間の出来事だった。17歳だった。
 今年初め、腎不全のステージ4と診断された。その時もぐったりしていたが幸いなことにステロイドと利尿剤が効いて回復、それから約一年。
 リンやクレアチニンは規定値の三倍以上、自宅で輸液を毎日行っていたが脱水気味で、ステロイド性の糖尿病を発症し、糖尿病が治ったら今度は高血圧で網膜剥離を起こし、最期の一か月はカリウムが低下していた。数値上では一年も生きてくれたのが奇跡といわんばかりの状態だった。
 しかし、それでも夏頃は嘘みたいにじゃれて遊び、刺身の匂いを嗅げば寄越せと言わんばかりにまとわりつき、夜に運動会よろしく走り回ってはしゃいでいた。元気な時は本当にお前病気なの? と笑えるほどだったのだ。定期検査で病院に連れて行くと、看護師さんと獣医さんから「力が強い子だね」「本当に17歳?」と笑われながら抑えられていた。
 
 それが三日間で旅立ってしまった。
 1日目で身体に力が入らなくなった。抱き上げてもぐにゃりとして、まともに歩けないように見えた。すぐに動物病院に連れていくと尿毒症になっているかもしれない、と利尿剤を投与してもらった。
 尿はそれから半日後に出たが、長い間多尿だった子からしたら微々たるもので、腎臓が尿を作れているのかといわれると微妙な量だった。
 
 2日目、刺身を上げた。まだ食べる気力はあるのだと喜んだ。数時間後に固形の状態で吐いてしまった。
 朝方病院に行き、尿は出たが少ないこと、出した時間が投与した時間から随分と経過しており、利尿剤が作用したのか不明なことを伝える。利尿剤を再度使用し、脱水しないよう点滴と、吐き気止めを病院でそのまま打ってもらって帰宅した。
 
 3日目。深夜3時のことだ。駄目もとで刺身を再度口に持っていった。寝むれもせずに不安そうな声で鳴くものだから、せめて何かしてあげたかったのだ。
 匂いを嗅ぎ重たそうに顔を上げた。小さな舌が手のひらを撫でた。――食べてくれた。
 また手の匂いを嗅いで、欲しそうな素振りまで見せるので小さく切った刺身をまたあげる。一切れを平らげた猫は自らの足で布団に横たわると私に身体をもたれさせて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
 久しく聞いていない音だった。嬉しいのと寂しい感情が同時に襲ってきて嗚咽を堪えながら身体を撫で続けた。
 
 6時。苦しそうな鳴き声を上げる。網膜剥離で見えない中で、しんどそうな呼吸をしている。胸に耳を当ててみると信じられないほど弱弱しい心音が聞こえてきた。
 どうすることもできず聞こえてるかもわからないが、名前を何度も呼んで細くなった身体を撫でる。自分の一挙一動が返って悪化させているのでは、と思いながら撫でることは止められなかった。
 病院に連れていくが、「博打で入院させて治療しても身体が持たない可能性があるし、正直手の施しようがあるかも危うい。できる限りの薬を投与して、家にいさせてあげた方がよいと思う」といったことを言われた。
 自分はそれでも生きてほしい、頑張ってほしいと入院を希望した。
 先生に準備をしてもらっている間、ぐったりとしながら顔だけは上げて鳴き声を上げる猫の様子を見ながら柔い毛を撫でていたら「やっぱり家で、見ます」と声が出た。「家に連れて帰ります」
 無理をさせたくないとか、そういう思いやりのある思考ではなかったと思う。最期を看取れない可能性とか、病院で亡くなる苦しさとかそういったものを考えていたわけでもない。寂しいから、とかでもない。今振り返ってみても当時の感情は分からない。
 「その方がよいと思います」先生が猫を見て言った。穏やかで、優しい笑みを浮かべていた。
 
 奇跡が起きてくれと願いながら、荒い呼吸を繰り返す猫を傍において、葬儀場を探す自分がいた。
 ちぐはぐな思考だった。猫がいないだろう明日のことに思いを馳せながら、猫を撫でた。宝物だ。身寄りのいない自分に17年寄り添ってくれた、大事な子だ。生きてほしい。看取りたくない。元気になってほしい。火葬場はどうしよう。明日からどんな気持ちで過ごせばいいのか。生きたくないな。やだなあ。一緒に死ねたらなあ。

 15時 動かなくなった猫を撫でた。目を閉じ、身体を丸めさせる。体液が漏れないよう綿を詰めた。それから、保冷剤で身体を冷やさなければ。わかってはいたが動けたのは随分経ってからだった。
 段ボールにタオルを敷いて、身体を横たえる。その姿が生前よく見たものだったから、笑いながら泣いた。生き返らないかなあ、なんて思いながら小さな愛しい子を撫でた。まだ身体は暖かかった。
 その後は、どう過ごしたかよく覚えていない。
 ただ、部屋の扉を少し開けて、猫が通れる道を無意識に作っていたことに気づいたとき、どうしようもない虚しさに襲われた。もうこんなことはしなくて良くなったんだ。通る子もいないのだから。
 猫のために暖かくさせていた暖房を切った。猫の餌入れをゴミ箱に入れた。食べさせられなかった猫のご飯やまたたび、猫用に飼ってきた小さく切った刺身。尿の量を図るためにかったお得用のペットシーツ。処分しなきゃな。と思ったのは覚えている。
 
 そして今日。もうすぐお別れがやってくる。

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