号泣
最近よく見かけるのが。ドラマを見て号泣した、とか、動物の健気さに打たれて号泣した、とか、なんでもかんでも「号泣した」と表されていることにいささか不満。
わたしの記憶の中で「号泣した」のは、親友が亡くなって、遺体を柩に納めるときだった。
息を引き取ってから、すぐに病室に迎えに生き。彼女の住まいに帰宅しいつも寝ていた布団に横たえてドライアイスを当てたときも涙はでなかった。帰りの車で少し泣いた。溢れてくる涙をぬぐうこともできず、ただただ、とめどなく泣いた。
明日はお通夜、という、前日。
彼女を自宅から火葬場の霊安室に移送し、その霊安室で納棺した。彼女の希望の、淡いピンク色の柩。
その柩に彼女を納めた瞬間、彼女は死んだ、死んだのだ、しんだのだ、死んだのだ、と、頭のてっぺんからその事で全身で覆い尽くされ締め付けられるような気持ちになって、口から「逝かないで」の塊が飛び出そうだった。
全身の毛穴が開き髪が逆立ち目玉が飛び出んばかり、の、「逝かないで」…だった。
そうして、わたしは叫び、慟哭した。
号泣した。
くるっと、彼女に背を向けて壁に向かい、わたしは自分が治まり鎮まる努力をした。相棒のみきちゃんが背中を撫でてくれて、掌を通して私に愛を伝えてくれて、「逝かないでの塊」をそっと追いやってくれた。
今になってわかること。
その時、多分わたしは、親友の彼女にまつわる色んな理不尽な出来事を。赦せたのかもしれない。
諦めたのとは違う。受け入れたとか受け止めたのとも違う。この運命を、赦した…としか言いようがない。
号泣っていうのは、そういうときにしか使わない日本語であって欲しい。
ちょっとのことで、怒りで震える…とか
普段からしょっちゅう爆笑!とか…
とにかく最上級の形容詞を当てはめたがる。
何故?そんな風に言語化されてしまうようになったんだろう。
ドラマを見て泣くのは嗚咽じゃないかなぁーとか。
だからなんだ?っていうお話なんですが。
最近の「気になる」でしたぁ。
おしまい。
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街のお母さん食堂を作りたい!シングルマザー専用のアパートを運営したい!障がい者雇用を産み出したい!人生100年!社会とのコミュニケーションがないと人生つまらない!夢は壮大です。生きづらい世の中ではあるけれどもまだまだ捨てたもんじゃない!小さくても1歩目がなくちゃ未来は始まらない!