親と子は別物
さて。わたくしですが。 昨年2月から1年間。葬儀の仕事をいったん辞めて障がい者就労移行支援事業所で働いておりました。なんの資格もありませんでしたので「生活支援員」として業務の一端を担っておりました。コピー機の操作もままならず、20代の先輩に何度も教えて頂きました。おかげさまで両面コピーもできるようになりました。パソコンも使いこなせず人の何倍も時間を要し、そのための時間と場所を確保してくださった仲間には感謝しかありません。55歳にしてその有様でしたので、世のOLさんを尊敬しておりました。皆様素晴らしいご活躍でございます。
わたくしが人より少し気づきが早かったのは、利用者さんの小さな変化でした。なんかいつもと違う感じがするな・・と、気になるのです。なのでついつい目線が外せなくなります。すると、やっぱりいつもと違うと確信するのです。近寄り、声をかけると。案の定体調がすぐれなかったり、詐欺に引っかかっていたり、家庭でトラブルがあったり、ということをお話ししてくれるのです。
倒れる寸前を支えることが出来たり、交番に駆け込んだり、お話をじっくり伺って、上司が対策を考えてくださったり。お役に立てたことが何度かありました。
障害を抱えている方、ほぼ9割の方に共通するのが、機能不全家族の中で生育した、と思われることでした。わたくしも機能不全家族で育ちましたので、勤めるにあたりわたくしの課題は「親子」について考察することと決めました。親にも親がいますので親もかつては子だったわけで。なぜ、機能不全家族が多いのか?そこで生ずる数々の困りごとはどう解決できるのか?を考える毎日でした。
親も子も。お互いに相手を想ったり良かれという気持ちから接しているはずなのに。なぜこうもうまくいかないのでしょうか?
わたくしが思うに。人間の幸せが100%満たされている時は新生児期と仮定します。親は、生まれて来てくれただけでありがとう、と思うのです。無条件で愛おしいと感じるのです。ウンチをしたと言えば安心し嬉々として柔らかなお尻をそっと拭いおむつを取り替えます。初めてお乳やミルクを飲んだ時は何故か自分まで幸福感に満たされます。
しかし、退院して自宅に戻ると。様々な問題が発生します。寝る時間もないほどに泣いてばかりの赤ちゃん・ミルクをあんまり飲まない赤ちゃん・イクメンなんてのは今どきですが、かつて父親が育児に積極的だった家庭はどれほどあったでしょうか?赤ちゃんが悪いわけではないけれど・・「夜泣きがひどい子」「ミルクの飲みが悪い子」等々、無条件100%だったわが子が、手を煩わせる存在となることが多いと思うのです。思うとおりに行きませんものね。そうすると、100%だったはずが99.5%になったりしていきます。
出産することが目的、というかゴールだったとすると、出産時が達成の時ですので「生まれて来てくれてありがとう」が成立します。その、出産の瞬間から、親の側が、次は手を焼くかもしれないが教科書通りでなくてもよいから育ってほしい、をゴールとして設定すればいのですがそんなことは致しません。誰も教えてくれませんものね。なので、どこまで続くかわからない夜も眠れぬ夜泣きのわが子を抱えて座り込んでしまうのです。そして気づくとその時期が過ぎ、曖昧なまま、そういえば夜泣きのひどい子だったわ、と振り返る。そうして「夜泣きのひどいわが子」は、ネットで検索した答えにあった「繊細」とか「過敏」とかいうワードの印象を母の心に残したまま育てられます。そしてさらに、体重が標準ではない、とか 笑わない、とか 大きくならない、とか膨大な数の不安をもたらします。100人いれば100通り。頭では理解できていても、やはり心配になってしまうんですよね。周囲の人から「痩せてるわね」とか「あんまり笑わないね」などと言われると思わず、「この子は夜泣きがひどくて、少し繊細なところがあるんです」なんて言ってしまう。そうやって,知らず知らずのうちに無意識にわが子に「あなたはこういう子」と、刷り込んでしまうのかもしれませんね。
赤ちゃんの側からしてみれば、泣く、ことが良いとか悪いとか考えているわけでも、ましてやわざと困らせてやろうと思って仕掛けているわけでもなんでもありませんよね。なのに、なんとなくカテゴリー分けされてしまい、標準でないと心配されてしまう。100%じゃないな。と感じてしまう子もいるかもしれません。
大きく成れば、それぞれの個性が出てきます。性格って、生まれた時からあるわけです。同じように育てても性格が違う兄弟姉妹とか、周りは勝手に決めつけますが。そもそも性格違うんだから同じようには育てていないと思うんです。性別が違えば違う。親も一人目と二人目では経験値が違う。占いとか、信じますか?信じているならお分かりになりますよね?その子の誕生日で運勢違うわけですよね?赤子といえども星座は変わりません。大人になっても誕生日は変わりませんからね。
新生児期を経て乳児 幼児 児童 青少年になるまでの間にはかつての100%が目減りしたように見えますね。生まれて来てくれてありがとう=そこに在るだけで幸せ、だったはずが やれ座ってられないだの落ち着きがないだのテストの点が悪いだの引っ込み思案だの泣き虫だの乱暴だのと言われて、そこに在る、だけではダメということになります。善し悪しが両親で分かれたりもします。お父さんはいいって言ったけどお母さんにダメって言われた、とかよくあるパターンです。
たった数年で、目減りしますから大変です。ただそこに在るだけで善しとされるわけがありません。努力とか忍耐が必要となってきます。何のために?明確な場合もありますがほとんどの場合不明瞭です。「勉強ができない」ことがマイナス要因ならばゴールを「できる」に設定すれば良いのです。が、そのためには努力が要ります。塾に通う 家庭教師をつける 親が教える なんとか自力で頑張る。それにはお金が必要だったり、親の労力が必要だったりします。自力で頑張るにも限界があります。そもそも「勉強ができる」ってどのくらいでしょうか?行きたい高校が決まっていてそこを目指したいとか 将来医者になりたいとかパイロットになりたいとか?今のままじゃ受験できる学校がないくらい成績がよろしくないのでどこでもいいから入れればいいから、とか?ともかく、このような状況をずーっと繰り返していくわけですね。そうしないと減る一方でちっとも回復しない。
寝る時間もないほどに泣いてばかりの赤ちゃん・ミルクをあんまり飲まない赤ちゃん。この話は親が子供を「心配する」ところから始まりました。これ、「愛」ですよね。夜泣きが止んだ、あーよかった!といったん区切りがつけばよかったのでしょうか?そして新たな問題として成長が遅いかも?が浮上すればまた違ったのでしょうか?なんせ、次から次へと・・ですものね。前の問題にケリがつかないまま次が覆いかぶさってくる。すぐさま次の波が来る・・1個だった心配が2個になり4個になる。傾向としてざっくり、明るいとかおとなしいとか活発とかの方向性が見えてくる。
親の側はその子の傾向に基づいて成長を見守ったり促したり支えたりする、親なりのやり方で。良かれと思って。
子供は親に答えようとする。「親は私のことをわかってくれない」と感じながら・・・
子育ては、失敗します。give&takeの不一致。
「失敗」の意味するところは人それぞれでしょうが、要するに自分の思うとおりに生きてくれる人間などこの世に一人たりとも存在しないのです。自分だって良い一面もあればそうでない一面も持ち合わせている。子供だって同じです。時には反省し、時にはやり直し、見て真似し、いらないところは捨てる努力をする。同じ人間同士、励ましあって慰めあって。でも自分は自分。あなたはあなた。
わたしも、あなたも。不足はありません。 今ある姿が100%なのです。
不完全・なにか不具合がある。全体としてうまく働かない。 それが機能不全。それが当たり前。それが100%。 これ、わかると楽なんだけどな。