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Twitterへのユーザーフィードバック

アカウントが復元されない旨を承知しました。

以下の文章は異議申し立てやクレームではなく、Twitterというサービスを10年間使ってきた一人のユーザーである私からのTwitter社御中への感謝と、Twitterサービスに対するユーザーエクスペリエンスのフィードバックとして陳じます。
本文がTwitterのシステム根幹を考える参考となることと、サービスの改善と更なる発展に繋がることを私は望みます。従い、システム運営ポリシーを決定する権限を有するサンフランシスコのTwitter本社の担当者様(こうしたユーザーエクスペリエンスの分析はユーザーリサーチをご担当の Grace Kim 様のご担当でしょうか?)にこのフィードバック伝わることを私は望みます。
やや冗長かつ個人的な内容も含みますが、Twitterサービスを10年間ヘビーに利用したユーザーのUXサンプルの一例として、ご参考いただければ幸いです。

まずはじめに、国も立場も社会階層も違う様々な人々とコミュニケーションの機会を得られたTwitterというサービスに対して、感謝の気持ちをお伝えさせていただくとともに、Twitterというサービスが優れていると私が感じた点について述べます。

私は10年前に作った @hotori というアカウントで7年間、 凍結後に再度登録した @amanohotori というアカウントで3年間、Twitterサービスを利用させていただいてきました。
この長い期間に私自身もTwitter上で多くの友人や恋人と出会い、別れ、Twitterサービスの日本における普及に際し、かつての様々な因縁(疎遠になっていた学友や古い仲間、古い知人、Twitter以外のあらゆるコミュニケーションツール(文通相手、メールや他のSNS)で知り合い連絡のつかなくなった人々、その他あらゆる話をしてみたかった人々との交流の機会を得ました。
こうした再会や新しい出会いは、SNS一般の醍醐味でもありますが、世界(特に日本)において大いに支持され、広まったTwitterという優れたサービスがあってこそ齎された、まったく新しいコミュニケーションのシステムと誰にも能動性を要求しない「ツイート」という緩やかな情報発信の形態の発明があったからこそです。
ひとたび長く疎遠になってしまったり、あまりにも社会的な隔たりがあったり、交流の機会や接点がみつからなかったりする人物に対して、さしたる用事もなく現実で突然に声をかけたり、メールやインターネット上のメッセージを伝達するといった強い能動性のある(受ける側にもやや乱暴に能動性を要求する)交流の在り方では、繋がることは困難でした。しかしTwitterというシステムは、この「ツイート」という緩やかな発信と、Favorite や Follow といった緩やかな反応によるコミュニケーションによって、個人間の適切な距離感と、双方が重圧や不快を感じない適切な段階を経て順序を踏んだ歩み寄りの機会が得られる、個人のプライベートな領域を尊重しあう日本の社会において有用なコミュニケーション手段となった理由であると、実体験をもって私はTwitterサービスを高く評価しています。
こうした優れたサービスであったため、私は長くこのサービスを利用してきました。

つづいて、このTwitterという優れたサービスを私が利用してきて、改善の余地があると感じた点について述べます。
開設当初のTwitterウェブサイトのトップ画面を私はいまも覚えています。小さなロゴと見出しの下にテキストボックスが置かれたRoRで出力された簡素なサイトは、10年前の基準からしてもウェブサイトとして素朴なもので、初めてこのサイトにアクセスした私はTwitterと称されたこのサイトが「何をするサイトなのか?」、「何ができるサイトなのか?」、「何をしてよくて、何をしてはいけないサイトなのか?」という戸惑いから始まりました。
この 「何をしてよくて、何をしてはいけないサイトなのか?(サイトを利用しようとする私には何が許されているのか?)」という疑問にはまず、サイトの言語からはじまり日本語を用いるユーザーがまず皆無にみえた当時のTwitterというUSのサービスにおいて、マルチバイト文字である日本語を入力してもいいのか? サイトがマルチバイト文字に対応していて、適切に表示されるのか? という技術的な根本の問題からはじまり、どういったポスト(ツイート)が望まれ、どういったポストが望まれざるのか? 何もわかりません。

私がTwitterというウェブサイトを知るきっかけとなったこのサイトを紹介するウェブログには、「何をつぶやいてもいい」と説明されており、例としてビールが飲みたい時に「ビールが飲みたい」とポストするんだと書かれていました。
理解できない説明です。ビールが飲みたい時に「ビールが飲みたい」とこのテキストボックスに入力して [Tweet] のボタンをクリックしたところで、何がどうなるというのか? メールのように誰かに向けるわけでもなく? このたあいない一文がウェブログのひとつのエントリだというのか? 誰が、何の目的で「私がビールを飲みたい」という情報にアクセスしてそれを読むのか? 疑問しかありません。

徐々に日本語ユーザーが増えてゆき交流らしきものが始まると、ひとりごとの合間にチャットらしきものを行うサービスだということが理解できてきます。
面白かったり、有用なツイートが "RT:~ @*" 、"QT:~ @*" といった具合に転送されてきたり、外部のウェブサイトのURLが張られたりしはじめると、Twitterというサービスの方向性がみえてきました。自然言語による短い言葉や、紹介文を含むウェブサイトやウェブログのRSSを代替したり、マルチメディアへのリンクを不特定多数に共有したりできるという可能性をユーザーが自然に利用し始めました。
その後も様々な利用の試みがなされ、フェアなルールの検討をユーザーが自治的に始め、フィードバックを受けて、一定の目的とポリシーを持ったいまのTwitterというサービスができあがっていきました。そして醸成されてきた「オープンな発言と主張による市民フォーラム的なプラットフォーム」が、匿名でのコミュニケーションを是としてきた特殊な日本のインターネット空間で、いままでにない非匿名によるフェアな言論空間が日本で広まったことを強く肯定し、称賛し、非匿名かつグループ内でのチャットではない、オープンな対話のプラットフォームを人々に広めようとしました。

私のこの取り組みは報われ、日本におけるSNSとしてTwitterは最も広く受け入れられるプラットフォームへと成長し、今日まで様々な垣根で隔たれていた現実の人間関係(家族や親戚などの肉親、新旧の友人、知人、新旧の同僚や仕事上の関わりがある人)のすべてが、ツイッターのフォロー、フォロワーというソーシャルグラフによって再構築され、果てには一方的に憧れていた作家、アーティスト、著名人とも非対称的に、時に対称的に繋がりを持つことができ、過去には年賀状やクリスマスカード、ファンレターといった郵便による通信により、細く維持されていた、また途絶えてしまった人間関係が、Twitterというひとつのソーシャルグラフに集約され、つぶやくように気軽に連絡を行い、受ける側も返答の義務や重圧を感じることなく受動的に緩やかな関係を保てるという、かつてない人間関係の在り方が成立するようになりました。

Twitterというサービスは郵便やメールやSNSを超えたインフラとなり、2011年3月11日の東日本大震災において、福島近隣の海岸に住んでいた私は多くの人々にその状況と自身の安否を伝え、またツイートにより人々の安否を確認し、また災害情報の共有などの社会インフラとしての役目を負うことがTwitter社から発表され、このTwitterというサービスが災害により通信環境が非常に不安定となりネット接続が困難な状況でSMSしか送信できない環境においても機能しツイートを行いタイムラインにもアクセスできる、耐障害性に優れた新しい社会インフラとして立派に機能することを確認させられることとなりました。

ここに至り、Twitterは私にとってインターネットの価値の大きな部分を占めるようになりました。各人、各トピックのRSSフィードの役目を置き換える情報ハブであり、個人的な連絡を行う様々なOSや端末環境に依存しない汎用性に優れたメッセージアプリケーションとして、また端末における第一の連絡帳としてTwitterを利用するようになりました。

ここで困ったことが起きます。
ツイッターの運営ポリシー変更により、ツイッタールールが変更されたことです。
運営方針の変化に伴い、利用者の利便のため、ツイッタールールやその運用ガイドラインが変更されることは適切なことでしょう。
しかし問題であったのは、このツイッタールールが「ルールが制定、改定されるより過去に遡及して適用される」ことです。
何年もの間に様々な発言をし、ツイート内容に対するルールが存在しなかった過去には、「ツイートしてはいけない内容」のルールは「国の法令を遵守する」というルール以外に参考できるガイドラインがありませんでした。そうした過去に遡及して、ルール違反によるアカウントロックが行われたのです。

私はツイッターのルールを尊重しようと考え、過去に遡及して現在のルールに抵触すると指定されたツイートの削除に快く応じ、現在のツイッタールールを確認してルールを遵守しようとして、また遵守したつもりです。しかし、結局は複数のルール違反が過去のツイートに含まれていたため、私に悪意を持つ人々の複数回の通報によって私の最初のツイッターアカウント @hotori は永久凍結されてしまいました。
これはTwitterをメールや他のSNSより上位の、第一通信連絡インフラと位置づけて利用してきた私には、大きな損害を齎しました。
ツイッターのフォロー一覧はそのまま私にとって唯一の連絡帳であり、この連絡先を一度に失ってしまう結果となり、日常や仕事に大きな問題をきたしました。

先にも述べた通り、Twitter社が運営に伴う諸事情やトラブルの回避を考慮した判断によって運営ポリシーやルールのガイドラインを定められたり、より適切に運営を行うべくそれが変更されたりすることは妥当であり、Twitter社の運営方針は第一に尊重されるべきであり、サービスを利用するユーザーがその遵守を心掛けることは契約上も認められたことであり、適切な運用であることに異存はありません。
しかしTwitter社はTwitterというサービスをひとつの社会インフラとしての運用することを標榜したことを忘れてはいけないし、 Twitterを利用する少なくないユーザーたちがTwitter社の宣言を支持する形でTwitterサービスを社会インフラとして認めてその役目を期待し、永続的に利用できることを念頭に第一の通信連絡インフラとして選択し、公私隔てなくソーシャルグラフを網羅する第一の連絡帳として採用し、連絡網として利用してきました。
ツイッタールールのガイドラインに抵触するあらゆるツイートを削除を要請する権限があり、あるいは無断で削除する権限もあり、契約された規約上の権限として凍結や削除や利用停止を行う権限もあります。この列挙されたうちの三番目となる最も強い権限によってTwitter社は、私のユーザーアカウントを永久凍結しました。これは確かに規約に明記された権限の行使であり正当です。
しかし永久凍結という手段は、Twitter社がユーザーにルールを順守させる唯一の方法ではありません。私はルールに抵触するツイートの削除に常に、何度でも即時応じてきましたし、私の居住する日本国内の法令に違反する(民事、刑事責任を問われる)内容のツイートは行っておらず、緊急を要するような違反ではありません。
他のあらゆるアプローチ(ツイッタールールに抵触するツイートの削除要請、または運営による削除)で対応可能であり、これに従う意思のある悪意のないユーザーに対して、アカウントの永久凍結という手段を安易に多用する運用は、社会インフラとしての役目を標榜し、これを認めて第一の通信連絡手段としてツイッターを利用してきたユーザーの信頼を裏切ることにはなりませんか?
Twitterは現在も社会インフラを標榜しているのでしょうか? 既にそういった運用ポリシーは標榜しておらず、ユーザーアカウントの利用停止をいつ行われてもやむを得なず、それによって経済的損失や致命的損失を被ることも想定して利用される程度の、信頼に足らないサービスであると理解して利用すべきだったのでしょうか?

現在のところ、経済的損失に対する民事訴訟などの考えは私にはありません。
ただお尋ねしたいのは、Twitterはどういった姿勢で利用されるのが適切なサービスなのでしょうか?
ユーザーはTwitterというサービスに何を期待してよくて、何を期待すべきでないのでしょうか?
Twitterサービスに社会インフラとしての役目を期待してよいのでしょうか?

2018年4月12日 14:45 Twitter Support <support@twitter.com>:

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