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クーピーでいえば白(こげ茶色2)

【こげ茶色2】

 朱莉は、喜美江と一緒に、自宅から少し離れた自分の実家へ向かった。次の日は休日だから泊まるつもりだと夫に伝えた。長男、次男、四男にも…。
 ただ、雄三には言わなかった。自分も行くといって聞かないと思ったからだ。言っておけば良かったかな…。兄弟たちから聞いたりしたら怒るだろうな…。でも、喜美江からは少し離してあげた方が良い。今は何も考えずに、心を守ってあげなければ…。
 母親は、元美容師だ。店は都内にあったが、夫の両親の介護のため店をたたみ、今の場所へ引っ越してきた。義両親も夫も亡くなり、今は畑をやりながら、猫たちとのんびり暮らしている。近所の美容院の手伝いや、時々、老人ホームなどからお願いされ、ボランティアで髪を切りに行ったりすることが、最近の楽しみの様だ。
「まぁ、いらっしゃい。よく来たねぇ、お名前聞いて良いかな?」
 母の元栄は満面の笑みで迎える。朱莉から事情を聞いてすぐに、うちに連れておいでと言ってくれた。喜美江はぺこりと頭を下げて、小さな声で名前を言う。
「そう、おばあちゃんは、もとえ、と言います。同じ「え」で終わる名前だね」
 にこやかに言いながら、喜美江の髪の毛を何気なく見ている。あまり切れないもので切ったようだ。子供の素直できれいな髪は、途中でザックリと切られ、長さもバラバラ…。
 見ているだけで涙が出そうになる。そんな思いをさせた大人たちにも、同じ思いをさせてやりたい…。
 元栄自身の髪は、茶色くて緩いパーマのかかったショートカット。おばあちゃん、には見えないけどなぁ、と喜美江は思っている。
 知らない名前の場所で、喜美江が住んでいるところよりも、田んぼや畑が多い田舎だ。
 何をされるのだろう…。
 昨日の出来事が遠い昔のように思える。思い出そうとすると、何故か白く靄がかかったように、頭が回らなくなる。ぼうっとしていると、朱莉や雄三、京志郎などが話しかけてくれる。この漫画おもしろいよ、これ食べてごらん、宿題のこれ教えて…。
 考えないようにしてくれているのだろうし、考えてはいけないのだけど…。頭の端に、何かがひっかかったまま過ごしていた。違うことを、と思って母親のことを思い出そうとしても、後姿や遠くにいる姿しか思い浮かばず、顔を思い出そうとして、のっぺらぼうになった。
 でも、どうしてもあの時のことを考えてしまう自分もいる。考えてはいけない、けど、忘れられるわけもなく…。喜美江は、自分が良くわからなくなった。
 …バカになっちゃったのかな…。
「喜美江ちゃん、お昼ごはん食べられるかな?おばあちゃんちのお野菜食べてくれるかな?」
「野菜…?」
 見ると、プチトマトやキュウリ、緑色の葉っぱなどが、竹でできたザルにのせられていた。
「緑の葉っぱは、コマツナ、こっちはホウレンソウ、これは…匂ってごらん?」
 と、緑色の小さな葉っぱを渡した。喜美江は手にして鼻へ近づける…
「うわ!すごい匂い」
 驚いて目を丸くした。
「そうなの!それはバジルっていうの。イタリアのハーブよ。ピザに使うの」
「ピザ?ピザパンのピザ?」
「…そう。ピザ。トマトと、チーズと…」
 元栄は言いながら、喜美江の顔を見つめた。
「ね、今から、ピザトースト作ろうか?」
「ピザトースト?」
「そう、良いわね楽しそう!おいで、手洗ってすぐ作ろう。」
 元栄はニコニコと喜美江をキッチンへ招く。が、喜美江は動こうとしない。元栄は、喜美江の足が小さく動いているのに気が付いた。
「ここを出て、左に洗面所があるよ、その隣はトイレね。座るタイプ、わかるかな?」
「うん!」
 朱莉は、喜美江の様子に気づかなかった。ああ、すごい。母親の気の付き方に感心する。だが、母親はすぐに髪の毛を整えてくれると思っていたので慌てた。まだ、喜美江はそんな状態じゃないだろう…。
「お母さん、まだそんなことできないんじゃない?髪の毛もあのままじゃ可哀そう…」
「大丈夫」
 朱莉の言葉を遮るように、元栄が言った。その言い方は、強く、芯のある声だ。
「今、あの子に必要なのは、生きること。息を吸って、食べて…触って、感じて、見て、聞いて…人として当たり前のことをすることなの。」
 言いながら、元栄はタンスの中から、小さなハンカチを取り出し、これが良いわね、と独りごちた。

 喜美江がトイレから出ると、洗面所の入り口に猫がいる。白・黒・茶色の毛が模様を作る、三毛猫だ。長いしっぽをゆらゆらしながら、喜美江を見つめていた。
「…ねこちゃん…。」
 喜美江は、野良猫以外見たことがなかった。公園や学校の帰り道に見かける猫は、近づくと逃げていく。この子も、そうだろうか…。動くと逃げてしまいそうで、喜美江はじっと見つめるしかなかった。それは猫も同じだろう、見たことの無い子供がトイレから出てきて、驚いている。しばらく見つめ合っていた。
「目…きれいだね」
 喜美江が言った。「ちょっと…緑?真ん丸で、宝石みたい」
 猫は、微動だにせず喜美江を見つめている。だが、少し緊張感は揺らいだ。
「動くよ?良い…?」
 言いながら洗面台へじわじわと移動する。蛇口が家とは違う形だ。銀色でなんだか可愛い形をしていて握りやすい。赤と青の丸いシールが貼られている。青い方をひねると、勢いよく水が出て、ジャア、と音がした。
「あ、ごめんね、びっくりした?」
 音の大きさに驚いて、思わず猫を見る、と、少し近づいて喜美江を見上げていた。
「かわいい…」
 猫を見ながら、そのまま水道に手を伸ばすと、思ったよりも水が…。
「わ、冷たい…。」
 家の蛇口から出る水は、最初いつも生ぬるい。なんとなく白っぽいし、すぐに飲みたくなくて、いつも出しっぱなしにして母に怒られる。でも、この水は…。思わず手で器を作って一口含んだ…。
「…おいしい」
 喜美江の目がキラキラと輝いた。ナァ…ン。耳障りの良い、可愛い声が足元から聞こえる。
「あ、鳴いた…」
 喜美江が目を丸くすると、三毛猫が足元に寄ってきて絡みついた。やわらかい三色の毛が足首やふくらはぎに触った。
「わぁ…ふわふわだ」
 ナァン、ナァ。三毛猫は、すりすりと身体を寄せてくる。
「ふふ…くすぐった。あ、そうかわかった!もしかして。お水飲みたい?」
 喜美江がかがんで猫をのぞき込む。ンナァ…ナァ。三毛猫は答えた…ように見える。
「よし、じゃあ…」
 よいしょ、と言いながら三毛猫の前足を抱え、抱き上げる。そのまま蛇口を…ひねろうとするが、手が届きそうで届かない。抱き方を変えようとすると、猫がもがいた…。
 う~ん…。
 喜美江は腕を組んで考えているようだ。猫はそれをじっと見上げた。
 蛇口を小さくひねり、手で器を作る。そこに水をため、慎重に足元の三毛猫へ…。ぽたぽたと水は下に落ち、手の中の水は微量だ。それでも、三毛猫はその手に顔を入れ、ペロペロと水を飲んだ…。
「飲んでくれた…」
 パアァ、っと喜美江の顔が明るくなる。
「もう一回…、ちょっと待っててね」
 蛇口に手を伸ばし、器を作り、猫へ…。その間、三毛猫はナアナアと喜美江にねだる。
「わかったよ、ちょっと待ってね…」
 気が付くと笑顔になっていた。水を渡し、猫はゴロゴロとのどを鳴らす、ただそれだけなのに…。
 洗面所へ続く廊下で、朱莉は喜美江の様子を見つめていた。昨日の出来事がなかったことのように、喜美江は笑っている。家では、ふと気が付くと一点を見つめ顔をこわばらせていた。考えないように気を紛らわせ、腫れ物に触るように、扱ってはいたが…。
「喜美江ちゃん…。あら、もうお友達になったのね。この子はミケランジェロよ」
「みけらんじぇろ?」
 三毛猫が、ミャオンと答えた。
「そう、長いからミイちゃんって呼んでるけどね。さあ、ピザトースト作ろうか」
 うん。喜美江は走って元栄とキッチンへ向かう。

 触れてはいけない出来事がある。それは、彼女を守るために隠されていくことで、でも、現実にあった出来事で、実際に体験したことだ。
 今、この子は自分に起きたことを忘れようとしている。それは、たぶん自分の中で自分を守るための自己防衛策を取っている。考えようとして記憶がぼやける。他のことを考えることで、忘れたふりをしようと、脳がコントロールしているのだ。生きていくための自然な行動で、本能的だ。無理やり笑うことで自分を律しているのだが…。
 それは、周りの人間も同じで、彼女のために、彼女の将来のために、彼女の家族のために「なかったこと」にした方が良いだろう、という考え方が主流だ。小学生の喜美江に、現実を見つめろとは言えない、相手を捕まえて謝らせたところで、喜美江が、もう一度ショックを受ける上に、人生に傷がつくことは否めない。
 近所の目、学校関係者への配慮、友人たちからの誹謗中傷、喜美江の母、芳美の仕事や生活への支障…。全てにおいて隠した方が、都合が良いだろう、という大人側の理由。
 そして、それは今までも良くあったことで、常に隠されてきたこと、だということだ。
 だって、恥ずかしいし可哀そうだろう。
 将来、お嫁さんに行けないもんねぇ…。
 途中、までなら問題はない。
 バレなきゃ良いんじゃない?
 減るもんじゃないし…。
 喜美江自身が、自ら受け入れ、忘れられるのなら良いのかもしれない。が、彼女は子供で、傷ついたことは、一生、消えることはない。
 いつか、大人になった時、もしかしたら、中学生や高校生になった時かもしれない、もしくは40代、50代でも思い出す時はくるだろう。
 隠して閉じ込めて、なかったことにして、誰にも言うなとくぎを刺され、本当は、つらいのに、怒って、泣きたいのに…。
 それをしたら「バレる」からできない。
 「言うな」と言われるから言えない。
 「あった」のに、なかったことにされる…。
 自分の気持ちに蓋をして、自分に嘘をついたまま生きていく。誰も何も言わない、そのことについて何も聞かれない、これで良いのかな?その方が、みんなの機嫌も良いし、周りともうまくやっていけている気がする。そうか、忘れて良いんだ、周りも忘れてくれている、だから大丈夫、何もなかったんだ、そう思うようになる。
 一度、その経験をすると、その後、多くのことにそれを適用する。傷つけられて、もしくは傷つけた場合も、バレなければ良い。なかったことにすれば良い。誰にも言わなければ良い…。自分に嘘をつくようになり、人をだますようになり、ごまかして生きるようになり…。 
 次第に本当の自分の気持ちや、本来持っている自身の感情などがわからなくなる。
 自分を知らないまま、生きてしまうのだ。
 それが、正しいのだろうか…。

 だけど…。
 朱莉は、楽しそうに過ごしている喜美江を見る。元栄が、赤いバンダナを三角巾のように頭に巻いてくれたおかげで、バラバラな髪の毛も気にならない。ただの、可愛い少女だ。
 どうして、こんなに可愛い人を傷つけることが出来るのだろう…。
 自分の欲望を満たすためだけに?
 見つかっても笑って済ませるだけ?
 守るべき親にもひどい仕打ちをされて…。
 この子が、この先どんな思いで生きていくのか、何故考えないのか…。相手を捕まえて、二度と普通の生活が出来ないようにしてやりたい…。怒りと悔しさで、目が潤んだ。喜美江のこれからはどうなっていくのだろう、と。
 朱莉は、危なげな様子で、トマトを切る喜美江を見つめる。元栄と一緒に、小さな手で大きな包丁を持ち、真剣な表情で、トマトを見る。鼻息は荒く、肩をガチガチにして…。
「あっはっは、喜美江ちゃんそんなに力入れないで。トマトはやわらかいから、すぅっと、やさしく…そう…ほら、切れたねぇ」
 喜美江を見つめる元栄の表情は優しい。
 孫は男ばかりで、大きくなってからは、あまりここに顔を出さなくなった。唯一、雄三だけは一緒に行くと言ってくれるが、下の京志郎も正月にお年玉をもらうなど、何か理由が無いと面倒がるため、最近は一人で帰ることが多くなった。
 女の子がいたら…。もう少し違った関係が取れていたかもしれないな…。朱莉は、ぼんやりと思っていた。
「ほぉら、できたよ。これを焼くの。じゃあ、焼けるまで、何か飲み物用意しよう」
「うん!牛乳飲めるよ!」
「わぁ、すごいねぇ、あ、そうだ。コーヒー牛乳にしようか?」
「コーヒー牛乳…知ってるよ、学校で粉いれて作るもん」
「そう、オシャレだねぇ。おばあちゃんちは、インスタントコーヒーで作ろうかな?あま~い方が好きかな?」
「うん!甘いの大好き」
 朱莉は、喜美江が楽しそうでほっとした。その反面、喜美江を傷つけた人間たちが頭に浮かんできて、息が出来なくなる。喜美江の母、想像の中でしかないが大学生という男…それまで、喜美江のそばにいた母親の恋人という人物にも…。腹の底から湧き出てくる、黒い感情で朱莉は慌てる。そういう人間すべてを…。
 ナァォン…
 足元から聞こえてきた泣き声で我に返ると、こげ茶色の猫が朱莉を見上げていた。
「レオ…」
 名前はレオナルド。キジトラだ。虎次郎も考えたけど…元栄が言っていた。自分をじっと見つめていて、朱莉は落ち着かない。何故か、自分の内側を見透かされているような気がしたからだ。そっと抱き上げて首元をなでると、彼はゴロゴロとのどを鳴らす。
 …少し、息ができるようになった。朱莉はそっと頬を寄せた。柔らかくて、温かい…。
 ナァン…レオナルドは甘える。
 そうだ…喜美江が、今、ここにいて過ごしているということ。もしかしたら、命も危険な状態だったかもしれない。もしくは、違う男たちからの暴力や、母親のネグレクトなどもこの先あったかもしれない…。
 今、ここに生きているということ。
 それが重要だ。
 喜美江が家に運ばれてきた時、尋常ではないことが起きたとわかった。それは、きっと男親だったらわからなかったかもしれない。何があったか、誰に何をされたのか、喜美江の気持ちなど考えずに踏み込んで聞いていただろう。そして、その事実を確認するために、その男を母親と共に見つけ出して、殴って罵って、大騒ぎしたはずだ。
 その方が、解決したのだろうか?
 喜美江の気持ちも楽だっただろうか?
 たくさんの人の、好奇な目にさらされても良かっただろうか?
 隠したまま、生きていく方がつらいだろうか?
 警察に通報すれば良かったのだろうか?
 大人たちは、小学生の女の子の話を、聞いてくれたのだろうか…?
 朱莉は、この話を家族以外に話をしていないし、するつもりもない。数日後、喜美江は母親のもとに戻るだろうし、そうするしかないのだろう、他人の事情に口出しできるような、立派な立場にいる人間でもない。まして、喜美江のすべてを引き受けることなどもできないのだから。
 ならば…。
 今、この時を、せめて喜美江が笑えるように過ごそう。
「喜美江ちゃん、もう一人お友達がいたよ」
 朱莉は、レオナルドを抱いて、笑顔を作った。
「レオって言うの。かっこいいでしょ?」
「レオ…」
 喜美江の目に光が入る。こげ茶色の猫は、始めてみる子供を観察した。
「少し黒い、トラみたいな模様…。」
「そう、良く見てるね。虎次郎って名前も考えてたのよ。」
「トラジロウも可愛いね!」
「レオは、気まぐれさんだからあんまり遊べないかなぁと思ったけど。喜美江ちゃん不思議ね。あなたには、すぐ懐いてる」
「それって…良いこと?」
「良いことよぉ。猫ちゃんはじっと見るでしょ?それは、相手がどういう人なのか見てるの。良い子かな?意地悪かな?遊んでくれるかな?って。喜美江ちゃんは意地悪しない良い子だなってわかったのね。優しいなってわかったんだよ」
「うん!意地悪なんてしないよ。そんなことしちゃダメだもん」
「そうだよねぇ。喜美江ちゃんはわかってるよね。」
「うん。だって悲しいよ。どうして、そんなことするんだろうって思うよ。気持ち悪いとか死ねとか、みんなすぐ言う」
「…それはダメだよね」
「それは言っちゃいけない言葉だよって言ったら、今度は私に馬鹿って言うの。変なの」
「そうだね、良くないね。喜美江ちゃんはそういう時どうするの?」
「馬鹿って言う人が馬鹿なんだよ、って。知らなかったのって言う」
「そう、良い方法だ…。でも、その後もけんかになるでしょう?男の子だったら…」
「うるせぇ、ば~か、女のくせに生意気だって。帰り道に待ち伏せされて意地悪する」
「そんなことするの?」朱莉は眉根にしわを寄せる。
「男のくせにカッコ悪いね」
「うん、で泣いちゃうんだけど…いつも、雄君と京ちゃんが助けてくれるんだよ。」
「うちの雄と京?」
 朱莉は目を丸くした。そんなことは聞いたことがなかった。
「喧嘩してるの?」
「ううん。お前ら何やってるって。それはやっちゃいけないことだぞ、って言う。俺だってわかるぞ、お前ら知らないなんて馬鹿だったんだなって、雄君が」
「雄…が」
 なんとなく、胸の奥がチクリと痛んで朱莉は慌てた。きっと、雄三より年下の子たちだ。俺だってわかるぞ…。その言い方に少し戸惑った。
「その後京ちゃんが、父ちゃん呼ぼうかって言うと、みんな逃げちゃう。おじさんが怖いのかな?」
「…そうなの?見た目が怖いのかしら…」
 朱莉が、顎に手を当てて考えた。
「全然、怖くないのよ。体は大きいし顔は黒いけど…」
「あっはっは。漢(かん)さんは、カッコ良いもんねぇ」
 と、元栄がグラスを運びながらやってきた。
「大きい会社の社長さんでさ、しかも建築業だと力も強そうだもん。実際、漢さん男らしいから、子供たちもわかるんだよ。真っ黒だしね」
「社長さんってすごいの?」
「すごいよぉ。会社の一番偉い人だし、頭も良くないと出来ないの。働いてる人のお給料払わないといけないでしょ?一生懸命働かないと、社長になれないんだよ」
「やっぱり良いなぁ…京ちゃんは、良いなぁって思った」
「ん?」
「昨日、おばさんのシチューすごくおいしかった!」
「ありがとう…。おばさんも喜美江ちゃんがいっぱい食べてくれて良かったよ。」
「お兄さんもカッコよくて、雄君は優しいし、ご飯もおいしくて、布団もきれいであったかくて…」
 うん…朱莉は頷くことしかできない。それは、元栄も同じようだ。喜美江の次の言葉を何も言わず待った。
「うちのお布団は寒いんだけど、昨日はふかふかだったの。天井もきれいで明るくてびっくりした。うちの電気、ほこりがすごくて蜘蛛の巣があったし…」
「…喜美江ちゃん?」
 朱莉が声を出すが、元栄がそれを手で制した。足元には猫が2匹、静かに近づいてくる。
「…良いなって、京ちゃんは良いなって…。お母さん優しいし、お料理上手だし、お部屋もきれいで、お花まで飾ってあって…」
 喜美江は、ボロボロと目から大粒の涙をこぼして、言葉を吐き出している。それは、喜美江の意図せず出てきてしまうようで…。止めようとするのか息も荒くなり、苦しそうに胸を抑え始めた。2匹の猫が喜美江の足元へ寄っていく。
「…うちとは違うなって、汚い服着て、ぼろい家で可哀そうだって…あいつが…う、う」
「いや…喜美江ちゃ…」
 朱莉は手で口を覆い、泣き出してしまった。元栄が膝から崩れ落ちる喜美江を抱きしめると、ミケランジェロは喜美江に、レオナルドは元栄の背中にぴったりくっついた。
「良いよ、全部出しなさい。受け止めるから、おばあちゃんたちがいるよ、大丈夫だよ」
「う…う…お父さんも社長で…お金あって良いな…うち、貧乏だから…。く、靴…欲しいって」
「そうか、ね、欲しいね、言えなかった…お母さんに。我慢してたね」
「…おこづかい…あげようかって…うう…う」
「うん…そうか、欲しいね。」
 元栄は、細くて小さな背中をさすった。猫たちは、静かに寄り添っている。
「いや…だったけど…愛してくれるって…」
 元栄の目が一瞬険しくなった。ひっぱたいてやりたい…。みたこともない大学生という馬鹿を、この手で…。
 喜美江を抱く力を強くする。
「ああ、悔しいね。いい?キミちゃん、悪いのはあいつだよ、キミちゃんじゃない。バァカ!ふざけんなって思って良い!出しなさい、泣きなさい」
「うっ、ひぃ、ああ…やだぁ!ヤダ…ヤダ…気持ち悪いよぉ」
 喜美江は元栄の腕の中で、泣きながら暴れ出した。ミケランジェロは体をこすりつける。レオナルドは、喜美江を見ながら二人の周りをゆっくり歩きだした。
「きみちゃ…どうしよう」
 朱莉も息がうまく出来なくなった。
「もう…良いよお母さん…可哀そうだよ」
「可哀そうなのは!」
 元栄が叫んだ。
「生きる力を失くしてしまうことよ。この子は何も悪くない!どうして隠れて、自分を殺して生きてなきゃいけないの。まだ、小学生よ」
「だって…どうするのよ…」
「生きて良い、何もかも出して生きて良い。誰が何を言っても、堂々としていなさい。自分は悪くないって、笑ってやりなさい。」
「…うう…あいつやだ…やだ…」
「母親を警察に突き出しなさい、犯罪者よ。」
「でも…キミちゃんが生きていけないよ…。社会はそんなにやさしくないんだよ。」
「本当にこの国は!親が子供をちゃんと見ない!男が上で当然だと思ってる奴ばっかり。自分を何だと思ってるんだろっ」
 元栄は半狂乱だ。今すぐにでも、警察へ連絡して母親と男を突き出してやりたい。
「学校でいじめられるよ、そんな噂話すぐ広がるんだから。喜美江ちゃんの将来が…」
「そんなことはわかってる。それでも、強く生きられる子になれば良いの」
「どうやって?卓だって言ってたよ。途中までなら問題ない、大したことないって、そんな世の中なの。こんな小さな子がいくら頑張ったって変えられないよ。」
「だから、我慢して生きて行けって言うの?朱莉、あなたは恵まれている。漢さんに出会って、ちょっと社会に慣れ過ぎたの?この先、何が起きるかわからないのよ」
「…どういうこと?私が良くないってことなの?」
「それが当たり前、という感覚がマヒしていない?雄君の話聞いたでしょ?誰かをいじめることはやっちゃいけないこと、わかってるくせに!やってはいけないことは、無かったことにしてはいけないのよ。喜美江ちゃんは被害者で、母親は加害者よ。」
「だけど…喜美江ちゃんが一人になっちゃうでしょう?私たちが訴えたところで、母親が何もなかったって言えば、何も変わらないの。ここで、私たちが喧嘩しても、結局他人よ?何も出来ないでしょう?」
「だから、聞かなかったことにして、ああ、可哀そうだったわねぇ、で終わりにするの?そんなことできるの?こんなに可愛い人を!見捨てろって言うの?悪いのは大人よ。この子じゃない!」
 喜美江は、いつの間にか朱莉と元栄の喧嘩が始まっていることに驚いていた。二人とも泣いていて、二人とも怒っていて…その原因は自分で…。
 横隔膜がうまく動かないから、息を吸うことが難しい。
 ひっ…ひく…ひっく…。
 あばらのあたりがひくついて、うまくしゃべれない。下を向くとミケランジェロが緑の目で見上げていた。
「…ミ、ミィ…ちゃ…」
 喜美江が小さく声を出すと、レオナルドが、そっと静かに朱莉と元栄を見上げて、ナァ…と低く鳴いた。二人は同時に、ハッと息を止める。
「…ごめん…なさい」
 喜美江が言った。
「こんなこと…になって…ごめんなさい。ママ…がごめんなさい」
 元栄も朱莉も、涙が止まらない。どうしてこんな思いをしなければならないのか…。
「ちゃんと、します…。ママに言います…」
「帰らなくて良い!」
 元栄が喜美江を抱きしめて言った。
「そんなヤツに、もう会わなくて良い!」
「お母さん…。キミちゃん困るよ」
「あなただったら!」
 元栄が朱莉に向かって言った。
「もし、あなたがそんな目に会ったら、私が、その男をめちゃくちゃにする!ひっぱたいて、飛び蹴りして、刺し殺してやるわ!」
 喜美江も朱莉も、そして、猫たちも目を丸くした。
「母親でしょう?自分の子でしょう?命の次に…いいえ、命よりも大事なのよ。そのくらいに思うものなの。なのに、この子の母親は…彼女を…なんて愚かな…」
 ボロボロと泣きながら、叫ぶように話す元栄の腕の中で、喜美江は驚くほど落ち着いている。足元には猫が二匹、うろうろしていた。主人の様子を心配しているようだ。
 ああ、みんなに迷惑かけているんだなぁ…。
喜美江は思う。でも、心の中は穏やかでとても静かだ…。誰かに思われるということ…。
 アイシテヤル…。
 あの男が言った時、それを知りたかった。愛するって、愛されるってどういうことなのだろうか、と…。
 今、目の前で泣いている女性は、初対面の赤の他人だ。友人の、おばあちゃん…。なのに、ずっと前から一緒にいるかのように思えてしまう。料理を教えてくれて、大したことの無い話なのに、すごいねって言ってくれる。泣いたら抱きしめてくれて、一緒に泣いて、つらかったねと言ってくれた。そして、生きて良い、と言ってくれた…。
 温かくて、優しい…。
「帰らなくて良い」そう言われたとき、素直にうれしかった。
 良いんだ、ここにいて良いんだ…。
 そう思ってほっとした。だが、その反面、母親のことを思い出して苦しい。母親が一人になって、警察に連れていかれるかもしれない…。少し心配している自分もいた。
 
 キュルキュル、ぐぅ…

 まず、猫たちが同時に喜美江を見上げた。その後、喜美江が自分の腹を見た。元栄と朱莉も、それに倣う。
「…ごめんなさい」
 喜美江が目を丸くして言った。
「おなか…なっちゃった」
「……。」
 ナン…。ミケランジェロが鳴いた。
 レオナルドは、ふんと鼻息を吐いた…。
 ふっ…ふふ
 朱莉が軽く笑う。少し、泣きながら笑う。ふふ…元栄も笑う。顔をしわくちゃにして泣きながら笑う。エ…ヘヘ、喜美江も思わず笑った。
 あは…ハハハ…アッハッハ…。
 3人で泣きながら笑った。猫たちはくるくると歩きながら、そんな様子を不思議そうに眺めている。
 気が付くと、何かが焼ける、香ばしい香りがリビングに充満している。
「あら!焼けすぎちゃたかしら」
 元栄が慌ててキッチンへ向かうと、猫たちもぴょんぴょんと跳ねるようについて行った。
 喜美江は、おなかを抑えながら笑っている。その頬には、涙の跡がくっきり残っているが、目はキラキラと輝いていた。朱莉は、自身の涙をこすり、喜美江の頬を両手で包み、そのままやさしく撫でた。
「うん、良い良い。おなかがなるのは元気な証拠!よし、コーヒー牛乳も用意して、食べよう、おばさんもおなか空いちゃったよ」
「うん…。食べて良いの?」
「あたりまえだよ。食べないと元気でないし、元気じゃないと笑えない。ね。食べよう、笑おう、それが必要だね」
「ちょっと焦げちゃったけど~」
 言いながら元栄がピザトーストを運んできた。
「でも、おいしいぞぉ」
 初めてのピザトーストの端っこは焦げて茶色かった。でも、たっぷり乗ったチーズが溶けて、皿の上にこぼれそうになっている。ザク、ザク…元栄が切り分けると、パンの香ばしい音と香りが広がった。
「わぁ…」
 喜美江の目がキラキラと輝く。そんな様子に、猫たちもやって来てピザをのぞき込んだ。ナァン…同じように、目をキラキラさせて鳴いた。

 何も…出来ない…。

 朱莉は自分の不甲斐なさに心が沈んだ。どうしたら良いのか、どこまで踏み込んで良いのか、下手に手出しをして家族に影響が出るのも怖い、でも、何もしないわけにもいかない…。それは、元栄も同じだ。できることならこのままここへ住まわせてやりたい。わざわざ母親のもとに返す必要があるのだろうか…。でも、きっと法律上、人間形成上、親子という枠へ納まるしかないのだろう。

 なんて…理不尽な世界…。

 ピザトーストを頬張る喜美江は、サクサクだ、と目を大きくして驚き、おいしいと言ってはしゃぎ、コーヒー牛乳を飲んで、また目を丸くし、猫と笑っている…。

 ただただ…普通の可愛い子供、なのに…。

 それを見て朱莉はこの子の笑顔を守りたい。それだけが頭に浮かんでいた。何を、どうやって…。策など何もない。ただ、そう思っただけだ。

                            「漆1」に続く
 
 

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