【オールナイト上映】秘密を抱える少年少女たち【岩井俊二】
新文芸坐で開催されているオールナイト上映に参加してきました!
岩井監督のそれは毎年毎年「行きたい、行きたい」と思いつつ、なかなか予定が合わず行けなかったのですが、今回、ようやく参加することができました!
ラインナップは、「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか」「リリィ・シュシュのすべて」「花とアリス」の3本。
夏のこの時期に見るにはあまりにも「大正解」な3本です!
1本目:打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか
元々は「世にも奇妙な物語」のようなショートドラマから発展し、劇場版に編集された、という伝説的な作品。この作品に、あの頃の自分を映し出されたという1点だけ見ても、奥菜恵は恵まれた女優であろう……と思わせるほど、この映画の彼女は瑞々しく、美しい「少女」として描かれている。
古い作品なので映像は基本的に粗い。スーファミ版の「スーパーマリオブラザーズ」や「スラムダンク」といったディティールに懐かしさを感じつつも、女性教員の胸をもむ小学生男子、登校日に子どもたちだけで掃除をするついでにプールで遊ぶなど、今から見れば、完全にNGな描写も見受けられる。だが、それもまた「時代」と思えば、それほど気になる箇所ではない。
「打ち上げ花火~」といえば、近年、シャフトが劇場版アニメとして発表したことが記憶に新しい。かくいう私も一度は劇場に足を運んだ。結果は言うまでもなく、ともかく行ったことを後悔したというレベルでもなく、なぜあの企画にOKが出て、あんなものがこの世に生み出されたのかと、疑問とも呪いともつかない気持ちで占められたことを、ここに記しておく。
そもそもこの「打ち上げ花火~」も、ドラマそのもの企画を岩井監督がなかなか理解せず、何度もその脚本のリテイクを食らった、という話だから、逆にその「If…」の部分を極めたアニメ版の趣旨を面白がったのかも知れない。でも、私は絶対に許さないからな。
この作品の美しさは、ラストシーンのプールでのなずな。ここに集約される。不思議なことに、古い映画であるはずなのに、ここのシーンだけ、キラキラと淡く、美しい映像が保たれている。たまたまそうなった効果らしいが、この演出自体も奇跡である。
夜のプールに服のまま沈む、なずな。
それを心配そうに見守る、典道。
ザブン、と彼の思わぬところから顔を出し、彼女はバシャバシャと顔に水を掛ける──映画を見ていればわかるが、彼女はここで確実に泣いている。涙をごまかすために、水を掛けたのである。
そこから流れる美しいBGMと共に、水と戯れる二人──やりすぎでしょ!?というくらいに、ザ・一夏の青春! これでこそドラマ!!
ここの最後のなずなの台詞が、その時の彼女の表情がともかく、私の胸を打つ。
「次に会えるのは二学期だね」
「楽しみだね」
しかし、彼女は自分が引っ越して、二学期にはいないことを知っている。知っていて、それを典道に言うのは「残酷」にも見えるかも知れない。けど、違うと思う。
なずなにとって、この日の「駆け落ち」は、駅のところで終わっている。あのシーンも、なずなの事情を知らない典道が、ただ女の子のわがままに振り回されているように見える。しかし、それがなずなにとって、どれだけ救いになったことか。
親の事情で、おそらく父親の女関係で、両親は離婚した。自分の意思に関係なく、生まれ育った土地を、彼女は離れざるを得ない。それに対するささやかな抵抗が「駆け落ち」なのである。
実を言えば、祐介も、典道も、初めはなずなの誘いを断ろうとしている。年頃の男の子。地元の人間もたくさん来る花火大会に、気になる女子と一緒に行きたい気持ちはあるが、気恥ずかしい……! これは、この心情が、わかりみがすごい。
典道と祐介の違いは、なずなが自分の運命に巻き込む気があるかどうか、というところ。祐介の時には、プールサイドではっきりと「好きだから」と答えているが、典道にはそこをぼやかしてホースから水を掛けている。恥ずかしいから、本当のことは言えない。
自宅から立ち去るときもそう、なずなは典道の手を掴んで、一緒に逃げる。それを、「な、なずな?」と見送る祐介が、本当にいい味を出している。
この映画の元ネタであるドラマが「If…」なので、だれが主軸になるかによって話が変わるであろうことは、他のドラマを見ていなくても容易に想像ができるが、あくまでもその選択権は「主人公」にだけある。
「打ち上げ~」のよいところ、かつ絶妙なポイントは、プールサイドでの勝負によって、確かに変わるのは「なずな」の運命なのである。典道や祐介は、その観測者に過ぎない。
祐介が勝った場合、なずなは「男に裏切られる血筋だ」と自身を呪い、「君が勝つと思っていた」と典道に微かな想いを告げ、そしてその相手に、「浴衣で母親に引きずられ、泣きわめく」という姿で、その邂逅を最後にする。あまりにもツラい。
しかし、典道が勝った場合は、違う。なずなは、自分を信じて「駆け落ち」をしてくれる男の子の存在を知る。そして、その事実が彼女を救っているので、電車には乗らない。
最後に、夜の学校に行くのは、別れを告げたくて。でも、典道に転校のことは言わない。言わないことが、彼女の希望である。典道は、きっと2学期にまた会えることを信じて、残りの夏休みを過ごす。その時間が、その想いが嬉しい。嬉しい気持ちが、プールでの最後のシーンにあふれている。だから、あのシーンは美しい。
メタな視点で言えば、なずなが最後に見せた典道への表情は、あの表情である。「次に会えるのは二学期だね」「楽しみだね」と笑って、キラキラと輝くプールへの向こうへ消えていく、彼女である。
なずなが、自身の理不尽な運命を、ちゃんと飲み込んで、その見込む過程に典道がいたことが、美しい一編なのである。
だから、典道は、なずなの抱えていた秘密を知らない。二学期まで、知ることはない。
なんで「駆け落ち」をしようとしたのかも、なぜ自分だったのかも。
でも、その秘密を共有しないことも、また一つの美しさだと思える。
…という上記の物語と平行に、ちゃんと男の子たちの物語、「打ち上げ花火は、横から見ると、平たいのか? 丸いのか?」という疑問も解消しているのが、この映画の素晴らしいところである。
ともかく、「男の子」のわちゃわちゃした感じを描くのがうまい。ただ、これはコミック的な表現も強いので、そのへんのさじ加減を思うと、ずっと映像で出すのは厳しいのかな、とも思う。
今作では言えば、家に一人で帰る典道が「ただいま」「おかえり」を交互に繰り返しながら自室へ上がるシーンとか。最近の「ラスト・レター」で言えば、松たか子の息子が、スィーッと靴下でフローリングの床を滑るシーンとか。「キリエの歌」で言えば、ザリガニを釣る少年たちの会話、だとか。すごくすごく自然でニコニコしてしまうので、そういうのをメインにですね!? いつか、少年たちを主人公にした映画を作ってくれないかなぁ!?
2本目:リリィ・シュシュのすべて
……という感想を、抱いて出てきたのが今作だったら、リアルタイムのファンは「本当に申し訳ありませんでした」っていうと思う。私の場合のそれは、時系列がズレるから正しくはないんだけど。いやいや、それにしても!?
死ぬまでには「スワロウテイル」とリリィ・シュシュのすべて」は映画館で見なくてはならぬ、と思っていたので、ようやく念願(の半分)が叶った。
定期的に見返している映画だが、家だとなかなか集中しないので、この作品特有の「掲示板の書き込み」をまともに追いながら見たのは初見以来だったかもしれない。初めてこの映画を見たのは、公開から1〜2年後で、すぐにどういうことかわからなくなって「原作」もとい「元ネタ」であった掲示板に辿り着き、読み込んだのも良い思い出。その斬新な「仕掛け」にも驚かされたものです。
世代としては、リアルタイムではないものの、ドンピシャリで。ああいった個人のファンサイト、その掲示板での交流、女子高生ブームから流れてきた援交の余波、キレる17歳・・・・・・など、当時の閉塞感というか、そういう空気はよくわかる。
初見のときから、映画ではインパクトとして津田詩織と久野陽子が強烈で、両者の演技力も相まって、ずっと彼女たちの物語に引き摺られて見たような気がする。今回、私自身も歳をとったせいか、原作小説を経たからかはわからないが、わりと蓮見雄一と星野修介の心情を追えたのが、鑑賞体験として新鮮だった。
しかし、だからこそ、少年たちの物語は映画だけでは描き切れていない、あの掲示板を見ながらではないと伝えきれない、と思った。
蓮見少年が何に絶望し、なぜ、あの行動に走ったのか──彼が心の拠り所にしていたリリィのライブを見られなかったこと。その妨害を、よりによって星野がしたこと。これが許せなかった。
はっきり言えば、それだけの話だ。
だが、それがどれだけ彼にとって、残酷なことだったのか。
それを描くためにだけ、この映画は二時間以上もの時間を費やしている。
映画は、リリフィリアの掲示板に書かれた書き込みを、実際に引用しながら、進んでいく。「小説」の方は、もう少し作りが複雑で、実際の映画とはまた違う展開になっているし、そもそもこの映画は「後続のファンサイトで語られたある書き込みを元に作られた映画」という作りをしている。虚構と虚構が入れ子上になりながら、何が「物語」の真実で、何が虚構なのかがわからなくなる。しかし、虚構だからこそのリアリティが、この映画にはある。
今回の鑑賞で、私がボロ泣きしたのは、久野陽子の丸刈りでも、津田詩織の自殺でもなく、あのライブのシーンだった。蓮見が、あのライブで見つけた、青い林檎──その持ち主がわかる瞬間までの書き込み。映画は、フィリアと青猫が、リリィの解釈一致で意気投合する姿しか描かなかった。それでいい、と思う。
チケットを無理矢理交換させられ、パシリのようにコーラを買いに行く蓮見は、自分の分のチケットがくしゃくしゃにされ、会場の奥へ放り投げられるまで、少し期待していたのではないか。ちょっとは希望を感じていたのではないか。リリィという存在を通して、また昔のような関係に戻れることを。だが、あのチケットの処遇を見て、それが絶対に、もう無理だと分かった。
日々のいじめで彼の心は摩耗している。怒りが沸くまでに時間がかかる。名残惜しくライブ会場の周りをうろついて。プロモーション映像と共に、ライブの始まりの歓声が聞こえたとき、彼は覚悟を決めたんじゃないか。
掲示板に書かれているような、「エーテルを汚すような行為」に、蓮見がキレたのではないと思う。でも、大きく見れば、そういうことになる。星野にリリィ・シュシュを教えたのは、久野陽子だった。あの書き込みを思い出せば、それは予想できる。星野の昔の同級生。彼女の好きな曲。いつもピアノで弾いているドビュッシー。
それなのに、なぜ、壊すようなことをしたのか。
掲示板で語られる言葉は抽象的で、わかりづらい。それがゆえに、「現実」と照らし合わせると、ひどく単純だ。でも、人の心同様、「事件」の真相など、そう単純ではない。
あの当時、凶悪犯罪を繰り返す「17歳」を見ていて、岩井監督はそういうことを描きたかったのではないか。彼らが単なるサイコパスなのか、ということ。もっと時代の何かが、あるんじゃないか、と。
……余談ですが、バスジャックの「17歳」はあの酒鬼薔薇事件の加害者と同学年であり、秋葉原通り魔事件の犯人も、同学年らしいです。
3本目:花とアリス
これはもう何度も映画館でも観たし、家でも観た!
光の岩井俊二。陽の方の蒼井優。
リリィ・シュシュの後にこれを見ると、ほっとする。というか、先輩役の子も出ていたのか。全然気づかなかったよ!
「その事務所はよくないよ〜」と具体的なことは何も言わない先輩モデル役の伊藤歩と、蒼井優のツーショットにニヤニヤする…。本当に前作で、同級生を演じたんか?
ラブコメディというより、少女たちの友情物語。ずっとコミカルに描かれるので、岩井俊二作品入門としてよく勧められるのを見る。間違ってもリリィ・シュシュから見てはいけない。
今回の鑑賞で気づいたことなど。簡単に。
元はキットカットCMのプロモーションから始まった本作。あの編集ではアリスの方が「トラブルメーカー」的な感じだが、蓋を開けたら花の方がヤバヤバ少女だったという逆転劇があり、おもしろい。
花はその名前の通り、のびのびと育てられたんだろうと思う。花屋敷といわれる家先の花や、庭を見れば、その母親(父親は出てこないんだよな)が大きな包容力でもって彼女の不登校も受け入れて、根気強く向き合ってきたとわかる。一方で、アリスの母はまだ「少女」だ。だから、娘のアリスがしっかりする。父親との年齢差があるところも、妙な説得力がある。花が、父親に懐いていながら、彼女を引き取れなかったのは仕事で家を空けることが多いためだろう。しかし、彼女もまた「ファンタジー」にときめく。その発現が小物の趣味や、バレエ、モデルという仕事を目指すことに繋がっている。
花の母親像と、アリスの母親像は、実は両者の性質の反転でもある。アリスは母の恋愛に振り回される。花の恋愛にも振り回される。花の母親は花を愛でる。本質は可愛いもの、きれいなものが好き。これはアリスの本質に似ている。お互いの母親に似た人を、友人に持っている気がする。
ところで、この映画、先輩の情報はほとんど出てこない。寺?の息子?なのか? ホームステイの外人を受け入れているようなのに、中国語の「ウォーアイニー」を知らないの、無理がない? 落語好きそうなのに、全然喋りが上手くならないのは、なぜなの。友達も少なそう。
しかし、それらは花とアリスの物語の間に断片として盛り込まれるだけで、確証はほとんど持てない。わざと、そういう作り方をしているとしか思えない。
これは、ともすると、花とアリスの物語だから。「花」の視点で見えた先輩のことしか、わからないようになっているかもしれない。実際に彼女がなぜ、彼にそこまで惚れ込んだのかは我々視聴者にはわからないのである。彼女の恋愛は、しかし、そうした「思い込み」から始まっている。だから、見ている側に彼の良さを伝える必要はないわけだ。
ただ最後に少しだけ、まさに核心をつくかのような、先輩の一言がある。「勝手に決めつけないで」という一言。あの文化祭の前から、花の悪業を、彼は知っていた。知っていて、別れは切り出さずに、彼女と付き合っていた。その真意はわからないけど、その前に挿入される文化祭への舞台に向け、頑張って練習する花の姿、恋愛目的で始めた落語に一生懸命になる姿には、見ている視聴者もニコニコしてしまう。そういう「真面目さ」が彼女にはある。
そうではなくても、「花」の魅力は映画で十分に伝わる。とんでもない子だけど、一緒にいて楽しい。彼もそう思えたんじゃないか。だから、もう少し付き合いを続けてみたのかも?
だから、最後のあのシーンは、むしろ花の目を覚まさせるものだったのではないか。
あと映像的に、ドアップ表紙を飾るアリスとの対比ね。泥臭いとこがかわいいよ、花は。
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