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【芸能と宗教と政治】「犬王」感想【語りモノとしての「平家物語」】

 応援上映とか轟音上映しか残ってない中、滑り込みで鑑賞してきました。轟音の方。時期が許せば、ペンラをフリフリできる方も行きたい。
 ミリ知らというわけではないけれど、「平家物語」は1センチくらいしか知らない、興味関心も物語そのものよりも成り立ちの方にある……という、訳のわからん人が初見の興奮のまま、書き綴ります。

 10〜30年くらい前から、古典研究の分野に「語り」の視点が入り込んで、『平家物語』もその中に位置付けられていたように記憶しています。特に「最後の琵琶法師」と呼ばれる山鹿良之さんが亡くなったあたりから、映像なり音源なりの記録を残そうと、世に出そうと専門家たちがバタバタしていたのを覚えています。
 「耳なし芳一」の話でも知られている通り、『平家物語』は琵琶法師たちがその亡霊の声を拾い、民衆に広めたのが始まりでした。その法師たちのほとんどは視覚障害者であり、恐山のイタコもそうであるように、あの世とこの世を繋ぐもの、その狭間に生きる人たちは何かしらの「欠落」を抱えている特徴があります。
 『犬王』はまさにその成り立ち、その転換期を描いた作品であり、「欠落」した人間が芸能によって政治の中核に入り込んでいく──政と祭、権力と芸能、強者と弱者という構造を、実にわかりやすく、エモい音楽と映像に乗せて現代に届けられた「新しい平家物語」でした。
 グッときたシーンは、友有座のライブ(って言っていいでしょ、もう)に乗せて、片足の青年がブレイクダンスを踊るとこでした。背景がそうなので、当然そういう人々をも拾い上げる。歌の力、舞の力、といったものの強さを改めて思います。
 このように、元々は社会的弱者が敗者の亡霊に耳を傾けて語られたのが『平家物語』。映画にもあったように、やがて時の権力者によって規制されていきます。人を扇動する力、能も平曲も歌舞伎も同じ運命を辿りますが、そりゃあそうだよな、と。説得力がすごい。NHKで椎名林檎を聴くときのような虚しさがそこにはある。
 友魚は創作上の人物だと思いますが、犬王の設定も「どろろ」的な感じで。なるほど、そうなるしかないな、と。彼はその生い立ちから、あの世とこの世の狭間に生きる者。ただし、その願いを叶えていけば、呪いは解かれる。
 ここで、彼らの別れはもう目に見えていたので、ラストは正直言って蛇足だと思ってしまいました。創作側の願いなんでしょうかね? 分かたれたままでいいじゃない。だめ? その想いが呪いとなって、今も平家が認識されているとかじゃ、だめ?
 より多くの人間に「歌」を聞かせることで、平家の怨念は晴れていく。犬王は人の形に戻っていく。時の権力者に認められて初めて、彼は「人」になる。けど、友魚はその「欠落」を抱えたまま。この構図がえぐい。

 湯浅政明監督の映像について。
 ライブシーンそのものより、やはり前半の「目の見えない」友魚、「視界の狭い」犬王の表現が卓越。元より感覚的な表現が得意な方ですが、その真髄を見た思いでした。ライブも、本当に手拍子が聞こえてきそうな、震動を感じられるまのでした。
 『マインド・ゲーム』もおすすめなので、『犬王』を気に入った人は是非見てね。

 琵琶法師とそのライブ性について。
 山鹿さん関連の本だったと思うのですが、その中で「講演なり公演なりが増えてくるにつれ、困ったことがある」という話がありました。依頼される催事は何分と時間が決まっており、その中で完結させないといけない。しかし、芸とはそういう類のものではないから、困る、と。
 平家を語ることは鎮魂です。琵琶を爪弾く、その揺らぎの音で霊たちに語りかける、もしくは語りかけてもらう、時間を、タイミングを図る。その時々によって、内容も曲調も変わる。
 この話を読んでて、しみじみと思いました。彼ら、琵琶法師たちにとっての「観客」は目に見えない者たちであって、生身の人間ではないのだな、と。同時に、整理され、「芸能」として確立してしまった「平曲」はもはやその機能を失っているのかもしれない、とも。
 私は『平家物語』の内容よりもその成り立ちの方が関心がある人間なので、今回、このような形でそれが世間に広まったことが大変嬉しく思います。

 アニメ『平家物語』について。
 映画と関連があるような、ないような。
 実は、1〜2話くらいで挫折してて、この夏に再チャレンジしようと思っています。が、上記のように「興味関心がそもそも物語そのものにない」人間なので、アニメに興味ないのも仕方ねぇなと改めて自覚できました。
 何が心惹かれなかったかというと、オリジナルキャラクタである「びわ」が原因です。100歩譲って「少年」なら、まだしも「少女」。びわ、琵琶という名の。その意味を考えると、うーん、となってしまう。
 未見でこんなことを書くのもなんですが、オリジナルキャラである以上、歴史の渦に消えていく存在として描かれるのでしょう。友魚のようにね。けど、彼には犬王がいたんですよ。そして、その犬王には藤若がいた。
 では、びわちゃんには?となると……。あくまでも、語り手として、傍観者として、彼女は描かれてしまうのではないか。それを、年端も行かぬ、特殊な力を持つ目の少女に背負わせるのかと。
 彼女が親を失った経緯と、友魚が光を失った経緯には通じるものがあります。しかし、片方が歴史の渦に消え、片方が歴史の狭間に浮かぶという図は、何ともモヤモヤするのです。それが、少女/少年という性差になっていることも、なかなかに示唆的に思える。うーん。見たら、杞憂に終わるのかなぁ?

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