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【輪るピングドラム】展示会と劇場版との兼ね合いで思ったこと【劇場版前編の感想】

真面目な方の感想。だが、最後の方、語彙力が喪失している。今までの幾原邦彦作品をさらうように綴っています。


「セーラームーン」シリーズに続き、「少女革命ウテナ」と、革新的な映像表現とテーマでアニメ界を引っ張ってきた幾原邦彦監督。
「輪るピングドラム」は彼のオリジナル作品としては2作目にあたります。前作「少女革命ウテナ」から14年。奇しくもそれは天上ウテナ、高倉陽毬と同じ歳に当たります。
14年の月日を経て、「王子様になりたかった女の子であるウテナ」から「何者にもなれない女の子である陽毬」へ──何者にもなれなくても、その生存だけで救われる存在があるのだというメッセージを、私はこの作品で受け取りました。ピングドラムはその意味で究極の生命讃歌の物語です。
しかし、そのために「世界」から消えてしまった冠葉や晶馬は?
そのそれぞれの想いはどうなったのでしょう?
「女の子を救い続ける王子様の苦悩」はウテナの頃から示されていましたが、それを救う存在としての魔女/実の妹、「少女」の話に終結したため、「王子」の話は横に置かれてきました。
次作の「ユリ熊嵐」では実際的な「王子」は存在させず、「女の子同士の恋愛」を真っ当から扱い、その次作「さらざんまい」でようやく少年たちに焦点が当たります。
しかし、正直申しまして、さらは一度しか見ていなく、そのテーマ性やストーリーがイクニアニメにしては珍しく私には刺さらなかった作品です。また見直せば違ったものが出て来るのかもしれませんが。何というか、時代だからとも思うんですけど、これ、少年たちだけでやる必要のある物語なのか?と思ってしまったことが敗因ですね。BL的要素を取り入れたこともあって、普段のイクニファンとは違う層の方々も試聴している、ハマっていると感じたのは新鮮でしたが。
ただ、さらは本当に何の障害もなく、当たり前のように主要3人が大人になった姿が想像できる作品でした。何年後かに、神谷バーで飲んだくれてほしいな、って思いました。「10年後に一緒にお茶を飲もう」が少年変換されると「一緒に電気ブランを飲もう」になるわけですよ。
そんな感じで、一ファンとして深くもなく浅くもなく、ふんわりと作品を享受してきました。だから、つい今までの作品との兼ね合いで今回の劇場版も見てしまいます。
ピングドラムから11年。ウテナから25年。
アニメ業界も、大きく変化してきました。
相変わらず日本の代表的な産業として成り立っていますが、その懐事情は決して明るくなく、国が援助バリバリするような他国に脅かされている、人材が取られていく現状があります。
今回、劇場版の制作にあたり、クラウドファンディングという形を取ったこともまた特徴の一つですが、私はこの話が出たときに「幾原邦彦の名前であってもオリジナルアニメを作ることはもはや難しい時代なのか」と軽めに絶望したのを覚えています。クラファンの目標達成率は瞬殺し、その後も費用が伸び続けているのを見て、アニメ関係者は何を思ったでしょうね。「この手はまた使える!」と思ったのでしょうか? それとも見る目がなかったと悔しがるのでしょうか。
また映像表現も大きく変化しました。ウテナと同時期にTV放送されていたエヴァンゲリオンシリーズがようやく完結したことも記憶に新しいです。その後の庵野監督はアニメではなく、特撮の世界に舞台を変えました。ジオラマなどを駆使して、今後も新しい表現方法を提示してくれることでしょう。
この流れの中で感じたことですが、「実写との融合」というのがアニメ界ではとみに叫ばれるようになってきた気がします。ピングドラムのリアタイ時も、そのロケ地を探し当てて訪れる「聖地巡礼」がありましたが、同時期かその後くらいのアニメ作品から「地域とのコラボ」がアニメ界で多く見受けられるようになりました。地方創生すらアニメ頼りなのかと思うと、この国は本当におもしろいな!
ピングドラムのすぐ後に出た「ユリ熊嵐」ではその視点はなかったのか、地域とのコラボは振るわなかったですが、「さらざんまい」ではその手法を存分に押し出しました。クラファンは直接にファンからお金を募る方法ですが、地域とのコラボも別な形での営業です。いいと思います! どんどんやってほしい! 知っている場所がアニメに出ているとテンションが上がるからね!!
……そして、劇場版の話に戻ります。
新規映像である前半とその後半に、「さらざんまい」でも用いられた実写を取り入れた表現が多く見受けられました。
私、これにとても感動しました。
この東京に、晶馬や冠葉が、陽毬が、苹果が、真砂子がおる!?と。
展示会の監督の挨拶に「この世界に高倉兄弟妹はいます」とはっきり書いてあって、あぁそういうことかと思いました。
おそらく10年前、ピングドラムに実際の地名を持ってきたのはそのストーリーの要となる「地下鉄サリン事件」との兼ね合いであって、地域との〜はあまり意識していなかったんじゃないでしょうか。そういうものありきで創作されたような作品に思えないのですよね。いや、あったかもしんないけど。取り扱いの事件の内容が内容だから、批判もある可能性は高かっただろうし。
だから、この作品がこういう映像表現を持ってこれたのは偶然なのか、先見の明なのか。
ともかく、とてもいいタイミングで、むしろその流れの中で、新たに表現できるものが、伝えたいことが伝えられると踏んで、今回の劇場版は作られたのだと感じました。
展示会では実寸大のペンギンちゃん、高倉家の食卓が再現されていました。これの意味も、そういうことなのだ。この世界に高倉兄弟妹がいるんですよ。消えてない。どこか遠い世界にいて、「どこへいこう?」で終わってない。きっと帰ってくるんだなぁと思ったら、泣きそうになってしまいました(というか、泣いたよね)
ウテナという作品は、ここではないどこかの学園が舞台です。その狭い世界から女の子が飛び出す話。だから、「どこか」と明言できる場所ではダメだった。けど、ピングドラムは「どこか」と明言できていい。そこへ、帰って来られるから。
両者の作品の間には14年の歳月があります。イクニアニメは抽象的な表現が多く、その手法も舞台的です。時間と空間がまったく同時に、あるいはズレて切り替わる。それがおもしろい作品です。けど、そこに「実体」が与えられる。「現実」が入り込んでくる。その意味を、思わず考えてしまうのです。
最後にまたお金の話になって申し訳ないんだけど、セラムン畑出身の彼なら、その商品展開とアニメの関係は知っていて当然だと思うし、その後の制作における懐事情も相当苦労したんじゃないかなと思うんだ。地域とのコラボもそれありきでされると、私は萎えてしまう方なのだけど、ピングドラムという作品はそこも押さえつつも、その意味が作品内で生きてて本当にこれはすごいことだと思った。池袋へ行くことの意味が変わってくる。10年前と変わった風景が、アニメには残されていて、10年後にまた新しい姿が見られる。とんだ試みだぜ。すごい。

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