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とある記事とその感想の呟きを目にして違和感を感じた。
「こうでないとおかしい」
「これが当たり前の世界が正しい」
本当だろうか?
〝(今は)そうは思えない〟ひとたちを否定するかのような論調を数多くRTすることに疑問を感じた朝だった。
「バランス」とか「塩梅」は〝どっちつかず〟のイメージから良くないことのように受け取られる時代なのかなと思う。
0か100か?
善か悪か?
賛成か反対か?
………………
以前は「日本人は極論に走りやすい国民性」なのだと思っていた時期もあったけど、どうも人類の習性らしいね。
自分の安心のために他人を殴ることが正しいと考える人が存在するだけで鬱々とした気持ちになる。
内外を問わず世界中で足らないもののひとつが『尊重』なのではないかと思った。
(なんか見た)
多様性を謳いながら自説を強要する人がネット上にはなんと多いことか。
「多様性を主張する」ことも自説の強要になるのではないか?
と訝しがりながら、淡々と師走は過ぎ去っていくのだろう。
数日前、生命保険の件で相談を受けた。
保険料の滞納があることが判明したが保険金が支払われるか?というもの。
結果、自動振替貸付や猶予期間のおかげでOKだったのでひと安心。
『保険なんて無駄❗️』と声高に叫ぶ人は少なくないが、死後の整理資金くらい無いと見送る人に負担がかかるんだよ。
方言はあるものの基本的に単一言語であり、なおかつ文盲率も極めて低いことが『伝達力』や『理解力』にマイナスの作用をしてきたのではないかというのが持論。
「伝わったはず」「理解したつもり」の積み重ねが乖離を大きくし、判断の遅延を招く。
文化の伝承にもかかわる問題だと認識している。
ごく普通の人たちの多くが経験してくることをいくつも経験しないままに過ごしてきた人生だったなと最近思う。
いつだって僕は気がつくのが他人より遅い。
「何を始めるにしても遅いことなんてない」と言われるがそれは嘘だ。
時間や若さがなければ出来ないこともある。
60点くらいの人生かも。
叔母を連れて1年以上ぶりにお墓参りに行ってきた。
近くのいくつかのお墓にもまだ供えたばかりらしいお花があった。
緊急事態宣言が解かれて、お参りに来る人も増えたのだろう。
またひとつ、以前の生活と同じことができるようになった。
でも油断はしない。
今さらながら尊敬語、丁寧語、謙譲語など文章表現が多岐にわたる日本語は、140字に詰め込もうとするSNSとつくづく相性が悪いと思う。
語尾ひとつで気持ちが滲み出てしまうのは、他言語ではあまり見ない長所であると同時にコンパクトにまとめる難しさがある。
略語が多いのもわかる気がする。
選挙や感染症といった多くの人が自説を主張する場面では、あきらかに「見ている景色が違うな」と思うことがある。
正しいとか正しくないということではなく、善なのか悪なのかということでもない。
ただ、そういう人も自分と同じように日々を過ごしているのが社会なのだと確認する機会ではある。
言動に注目しているクリエイティブな職業の人たちのほぼすべてが現政権に批判的なのはなかなか面白い。
と同時に『クリエイター=現状打破』的なステレオタイプに自分が毒されてるなとも思う。
仮に政権交代してもあの人たちは時の権力に反発し続けるのかもな。
違いを確認する投票日。