見出し画像

「外野は黙ってろ」

「あたしね、週に一度だけ家を出て、美味しいものをたくさん食べて、夜はこうして少しお酒を飲むの。それが楽しみなのよ」

彼女は自分の焼酎に小さく口をつけグラスを置くと、少女のような笑顔で話し始めた。

「今日はね、中華行ってきたのよ。そこね森伊蔵が置いてあるの。もう最っ高に美味しかったぁ~やっぱり一級品よね。一杯飲むだけで高いんだけどさ、ちびちび大事に飲んだわよ。あと餃子とね、レバニラと。ラーメンはあんまり良くないね、あそこは森伊蔵と餃子!あとレバニラ!」

彼女はおそらく七~八十代。身体の線は細く、その量を一人で食べたのかと驚き訪ねた。

「違うのよ、彼氏と二人で行ったのよ。彼がね、よーく食う男なのよ。見てて気持ちいいくらい。それであたしより年上なんだから、あれは長生きするね。してもらわなきゃ困るんだけどさ!」

週に一度、彼氏との外食を趣味に過ごす。なんて素敵なのだろうと、肌艶のいいピンク色の頬を眺めながら、自分の心が温まっていくのを感じた。

「彼はね、一人暮らしだからさ。普段はまともに食ってないのよ、きっと。じいさんの一人暮らしなんて侘しいものよね。だから彼も楽しみなのよ、あたしと一緒に食べる食事が」

カラッとした雰囲気で話し、時折見せる少女のような笑顔がキュートな彼女は、羨ましくなるほど幸せそうに見えた。これから彼女の歳を追っていく私としては、まだ見ぬ未来に大きな希望を与えてもらったような気がした。

そこで一つ、疑問が湧いた。
どうして週に一度しか会わないのだろうか。一緒に暮らさないのだろうか。制限の理由は何なのだろうか。

「あたしね、旦那がいるのよ。うちに。脳梗塞三回やっててね、ほとんど話せないし、一人じゃまともに動けないの。意識だけはしっかりしててね。だから面倒見てんのよ」

今までの穏やかな空気は一変し、私はなんと声をかければいいかわからなかった。
彼女は焼酎の入ったグラスを眺めながら、何かを思い出すように語り始める。

「旦那はね、ほんとしょうもない男なのよ。あたしの知らないとこで貯金全部を使い込んで、借金までしてたの。ローン返済にって考えてた退職金は全部返済で持ってかれたわよ。子供が小さい時だってろくに面倒も見ないでずっと居なかったんだから。何度も別れようと思ったわよ。もう我慢できないと思って実家に帰ると、次の日の晩に迎え来るのよ。『帰るぞ』って。それだけ。でも子供にとっちゃ父親じゃない? 親にもあんまり心配かけちゃ悪いと思ったし、旦那だって高いプライド曲げて来てるわけだし。それでね、家に帰ると旦那はすぐに出ちゃうのよ。ガッカリするんだけど、ふと机を見ると紙が二つ折りになって置いてあるの。手にとって開いてみると、旦那の字で『ごめん、お前が大切だ』ってことが書いてあるの。一緒にいても好きだなんて言われたこと無いし、ご飯食べててもうんともすんともない男がよ? どんな思いでこの手紙を書いたのかって思うと、いいかって。思っちゃうのよね」

私は、彼女が遠くを見つめながら語るその話を聞きながら、締め付ける涙腺の痛みを必死に堪えていた。彼女の人生に触れ、見たこともない机の色や、旦那様の字、その手紙を読んだ時の彼女の歪む表情を想像し、私がかけられる言葉など無いと思った。

「今もね、借金まだ残ってんのよ。あたしがね平日の午前中仕事して返済してるの。旦那がそんなだから一日はほっとけないじゃない? だから朝早くから昼まで。うちの子供たちは旦那のこと見てきたじゃない? だから『母さんこそ倒れないでよ』とか『母さんの幸せ考えて』とか施設の話をするんだけど、あんなプライド高い人が施設なんて無理よ。子供たちに迷惑かけたくないし。最近娘が結婚してねぇ、十年以上付き合った男と、やっと。あの子は浮気とか、そんなタイプじゃなくてね。一途というか、硬派というか。娘はね、あたしに彼がいることなんて知らないの。言えないよ」

私は頷き続けることしかできなかった。彼女の話を聞きながら、こみ上げる涙の明確な理由が自分でもわからない。こんなどこの馬の骨かもわからないような小娘が勝手に流す涙で、彼女の語ってくれる人生の一部が安っぽくなってしまってはいけないと、そんな心配をしていた。

「でもね、今の彼は私のことを可愛いって言ってくれるの。毎回好きだって言ってくれるし、歩く時は手をつなぐのよ。向かい合って食事をすれば『これ美味しいね』とか『これ好きだろ、食べな』って譲ってくれるの。優しい人なの。あたしが欲しかった時間を、彼はたくさんあたしにくれるの。だから幸せなのよ」

定年をとうに超えたであろう女性が、今も朝から仕事をしていて、帰れば毎日旦那の介護。娘に打ち明けることはできない彼の存在が今の彼女を支えているのだと、嬉しそうに微笑みながらグラスを空ける横顔が物語っているように見えた。

「彼はね、奥さんがもう亡くなってるの。だから一人暮らしなんだけど、本当はあたしと暮らしたいの。一度だけね、前に言って。でもあたしは旦那が死ぬまでは面倒見るからね。それはやっぱりそうじゃない。結婚って、あたしはそういうものだと思うのよ。ほんとは嫌よ、すぐにあんなしょうもない男放って彼と暮らしたいけど、でもできないわよ。だからね、彼もそれ以来口にしなくなったわね。でもね、今の彼の夢は、あたしと温泉旅行に行くことなの。ほら、家空けられないじゃない? 無理なんだけど、旅館で美味しいもの食べて、二人で温泉に浸かって、のんびり過ごしたいんだって。かわいそうなことしてるよね、あたし」

思わず首を横に振った衝撃で、溜まっていた涙がパタパタとこぼれ落ちた。それが正しいかと言われたらわからない。ただ少なくとも、彼女を中心とした当事者以外が判断するものではないと思った。正しい正しくないなど、到底言えるわけがないと、そう思った。

「ふふ…でもね、旦那はきっと気づいてるのよ。あたしが外で男と会ってること。でも言葉はもう喋れないし、力で止めることもできない。旦那はあたしに面倒見て貰わないと生きられないでしょ? だからね、何も言わないの。何も言わないで、あたしをじっと見つめるの。あれはね、気づいてるのよ。『俺は知ってるぞ』って。でもいいの。今までのお返しよ」

そう言うと彼女はグラスに残っていた焼酎をぐっと飲み干し、マスターに手を上げ「そろそろ帰らないと」と会計を告げた。
私はまだ彼女の人生から帰ってくることができず、現実である目の前の光景が映像のように流れていく。

「じゃあね、また飲みましょうね。もう、そんな泣いて。付け入る男が寄ってくるから気をつけなさいよ。じゃ、おやすみー!」

彼女は太陽のような笑顔を見せ、常連客に手をふると、小さな歩幅で店から出ていった。
私は急いでその後を追い、夜道を歩いて帰る後ろ姿を捉えると、それは街でよく見る小さなおばあちゃんだった。私の横で大酒をくらい、豪快に笑ったかと思うと不意に少女のように見せるあの女性は、みんなが想像する老婦そのものであった。

それは特別なことじゃなく、誰しもが訪れるであろう瞬間。誰しもが通ってきた瞬間。
人の人生は、当人にしかわからない。他人が決める正しさなんて、その人の人生の何ものでもない。
彼女はとてもキュートな女性だった。責任感が強く、愛情深い。私は勝手にそう思ったが、だからといってそれは彼女の人生にとって、なんの関係もないことなのだ。

------------------

最後までお読みいただきありがとうございます。

宜しければ、Twitterフォローお願いします。
主に新しい物語、SM、日常をぼやいています^^♥

::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::୨୧::::::::::
■Twitter
https://twitter.com/amanegaanone

::::::::::୨୧::::::::::୨୧::::::::::୨୧:::::::::::୨୧:::::::

サポートいただけたら嬉しいです。 少しでも多くの癖を刺していきたいと思っています。 よろしくお願いします。