【短編小説】ミロンガ•アン•レ①
踊り手の妖しい笑みが胸をつかむ。濃い色で縁どられた切れ長の目が私を捕らえる。
そして、私のなかからなにかが掴まれ、掴まれたものがずるずると引っ張り出されて、いともたやすくぽんと遠くに放り投げられた。
彼女の激しく踏み鳴らすステップが、ホールの静寂を埋めつくす。
踵が床に打ち付けられるリズミカルなサウンドに誘われるようにして、なにかが取り出され、なにもないはずの胸の隙間が騒ぎだした。
この私のなかでのあまりの騒々しさに耐えきれず、ウッ、と漏れ出た声を隣に座った妻が聞きつけ、気分悪いの、と耳打ちする。
私は小さく首を振った。
彼女の音を打楽器が追いかける。光の筋がその後を追う。時々ライトに照らされて、踊り手の表情が漆黒のステージにコラージュされる。それが一枚の絵画のようにも見えてきた。
下手からもう一人踊り手がその絵に加わった。上手からももう一人、また一人と場面が賑やかになり、音もだんだんと大きくなる。
ステージの振動に共鳴したのか、私はどうしてだか突然、尿意を覚えた。もぞもぞとできるだけ体を小さくして通路を目指す。妻が移動する私を隠すように椅子の上で身を屈める。
通路側の席で助かった。
こんなこともあろうかと思ったのだろう。なんと気の利く妻だろうか、と最近とみに多くなった妻への褒め言葉を反芻する。
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「創作ダンス?」
「まあ、お父さん世代だと、そう言ったほうがわかるかしら」
馬鹿にしたな。
私の憎まれ口は次第に強さを増す雨にかき消された。妻は何?というように首を傾げるが、私はそれには答えず、注がれた緑茶をひと口含んだ。
妻はこのところ私を年寄り扱いする。
世代も何も、還暦を過ぎてしまえば一回り以上の年の差など関係ないのだ。
「お友達のお嬢さんがね、お父さんのいうところの創作ダンスをやってるのよ。今度舞台があるらしくて。それで、チケットもらっちゃったの」
目の前でそれをひらひらさせる。
「水曜日は病院はないでしょ。どう? 気分転換に行ってみない?」
「申し訳ないけど、興味ない」
私は話を終わらせるために座卓の上の新聞を手に取って広げる。
最近はどこぞの国で新種のウイルスが発見されたとかで、紙面が騒がしい。
「そう? 残念。絶対、聴きたいと思うんだけどなあ。えっと、どれどれ」
妻はチラシを近づけたり遠ざけたりして、メガネを上げ下げする。
まだ諦めていないのか。
「曲目はえっと、タンゴだって。ブエノスアイレスの、ピア…ノ…ラ、あ、ピアノラの曲、ほらあ、お父さんの好きな曲じゃない」
「ピアノラじゃない。ピアソラだ」
わからないならいうな。
ダンスか。
ピアソラは私の一番好きな作曲家だが、やはり、ダンスには惹かれない。
しかも創作ダンスか。
たしか、娘が高校生の時に妻に連れられて学校行事の発表会をみにいった。
見るのが恥ずかしくて顔を上げられなかったことだけ記憶している。
「お父さん、ピアソラよ。生の音楽、CDとは違っていいわよ。行きましょうよ、ね」
妻は左右の手に一枚ずつチケットを持って、自分の頭の上で前後に振ってみせる。
ウサギのつもりか。
まあ、でも私の好みの音楽だとわざわざチケットを手に入れてくれたのだろう。
今度の水曜日な、と承諾の返事をした。
(つづく)
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