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凪 2

あの夏の回想シーン。

音大を卒業した私は大した職業も肩書きも持たず、
ただただ暇を持て余す生活をしていた。
それなりに幸せだった。
バイトへ行く。本を読む。ピアノを弾く。カフェでコーヒーを飲む。
何の面白みも感じることのない生活。
今思えば、どこかで穏やかな死を望んでいたのかもしれない。

あの頃の私は何を考えていたのだろうか。
カフェでのバイトの帰り、酷い通り雨にあった。
人生で一番雨が降っていたかもしれない。
小さな折りたたみ傘しか持っていなかった私は仕方無く広場のピアノ椅子に腰掛けながら雨宿りをしていた。
ピアノを弾く気にはなれなかった。
びしょ濡れの青年が走ってくるのが見える。
驚いた。
数週間前、私にここで拍手を送ってくれた彼だった。
彼と言葉を交わすのは初めてだったが、聞けば、彼は音楽を生業としているのだという。


数カ月後、広場のピアノが撤去されることになった。

ピアノを弾く環境がなくなってしまうことを、その日も傍らで私のピアノを聴いていた彼に嘆く。
それなのに、彼は優しく笑うのだ。
「なら、僕の家のピアノを弾けばいい」
このピアノの音色が聴けなくなってしまうのは残念だけれど、
毎日でも通ってもらって構わない。

こんなに幸せなことがあるだろうか。
私のピアノが好きだ、と言ってくれる彼の前で毎日ピアノを弾くことができる。

彼の家を訪ねると、その部屋の狭さに驚いた。
たった6畳の部屋の大部分を占めているアンティークのピアノ。
その美しさに目を奪われる。
彼は部屋のロフト部分で寝ているのだ。
ミュージシャンとしての覚悟を感じる。

年季の入ったアコースティックギターを弾く彼。
そのアルペジオの繊細さに魅了される。
なんて、なんて美しい音楽を作り出す人なのだろう。
胸が詰まりそうになる。
「さあ、君の番だよ、凪」
不意に名前を呼ばれ、我に返る。
寝食も忘れ、2人で夢中になって音楽を演奏する。
永遠にこの時間が続けば良いのに。

「この部屋は防音だから時間も音量も気にしなくていいんだ」
という彼の言葉を信じ、本当に一日中彼と楽器を弾いた。
気付けば朝陽が昇っていて、バイトをさぼる訳にはいかない、と慌てて家に帰った。

君にはどんな風に世界が見えているのだろうか。
忌々しく、黒く濁っているだろうか。
それとも、青く澄んでいるだろうか。

初めて人のことを天才だと思った。
大学にも人から妬まれるような才能のある人はいたが、
彼らには憧れや尊敬の念を抱くことはなかった。
でも、彼は。
彼は違っていた。
少し憂いを帯びた表情で弾くギターも、アドリブで作り出すメロディーも、
紡いでいくどこか感情的で柔らかな歌詞も。
すべてが美しい。
そう彼に伝えると、照れながらも自嘲する。
「今君が言ったような、そういうのがないから僕は今こういう生活をしている。
 そもそも、この世に天才とか、才能とかって存在するのかどうかも
 わからないよ。
 でも、僕は確かにあの日、君が広場でピアノを弾いているのを初めて見たとき、あの音楽に。」

そこで彼は言葉を詰まらせる。
「君が奏でる音楽のために死んでも良い、と、そう思った」

黙る私に、彼はどこか苦しそうに続ける。
あのときの君は、誰かに聴かせるでもなく、ただ単に、自分のためだけに、ピアノを弾いていただろう。
それが本来あるべき、本当に美しい音楽のあり方なんだ。
目的もなく、ただただ没頭してピアノを弾く。
僕にはできない。

今でも鮮明に思い出される。
大事そうにピアノを撫でながら少し掠れた声で自分の思想を淡々と話す彼。
淡く爆ぜる月明かりが眩しく感じられるほど、
あの日の彼は凛としていた。

何も言えず、私は月光ソナタを弾く。
彼の横顔をちらりと見る。
どうしてこんなに苦しそうにしているのだろう。
最後の小節の、最後の音が終わると同時に微笑む彼。
君の音楽は月のようだね。
その明かりに救われる人がいることを分かっておきなよ。
なんでそんなに簡単に言い切れるのか、と軽く睨むと
なお彼は嬉しそうにしている。
ありがとう。君の音楽と出会えて良かった。
自分自身ではなく、自分の音楽を褒められたことが嬉しかった。

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