朝食

新しく住みはじめたその家から、少し坂を上ったところに、あまり見かけないパンがたくさん並ぶパン屋さんがある。飴色というのはこれか、と思わせるパイ類に、キッシュ、ハード系のパン。確か初めてか、その次ぐらい、ふたりとも家にいる休日の朝だった。こっそり早起きして買いに行った。途中で野菜の朝市なんかを見つけて、そうか、これから豊かな暮らしがはじまるんだなと思った。好きな人とおいしいね、と言い合える生活。ゆっくり食べて、話をして、家でくつろぐ、という生活。

焼きたてのパンかごいっぱい、隣の成城石井でチーズやスプレッドも買い込んで、家に戻った。相手はもう起きていた。「今日これからおいしい朝食をつくるから」というと、相手はうん、と言って部屋に戻った。

しばらくしてお皿に、久方ぶりに凝った食事が並んだ。スープに焼きたてのパンたちに、確かつけあわせのサラダや、果物も盛ったと思う。食器類は充実とは程遠かったけど、これから揃えられるから良い、と思った。

「できたよ」

新しい生活、新しい発見にわたしは夢中になっていた。どんなパンが並んでいて、どう考えてどう買ったか。何が良さそうだったか。様子がおかしいのに気づいたのはそのときだった。相手は部屋から出てきて、食べて、そのあいだじゅうとくに何も言うことなく、気づけば5分ほどで食べ終わった。相手が目を上げることや、こちらを見ることはなかった。わたしは最初のうちうれしくて、これはここで買って、すごくよくて、、と、喜び勇んで話していたのだけど、こちらが意気込んでいることに相手が戸惑い、狼狽している様子に嫌でも気づくことになった。

「どうだった?」

「とくに。何かあったの?」

「いや……別に。」

ゆっくり話しながら、、、そうだな、30分ぐらいかけてゆっくり、初めての休みをどう過ごそうか、なんてことを話しながら味わえると思った朝食は、電車の待合時間にかけこむ屋台そばのように早く終わった。相手は食べ終わるとすぐに自室に戻った。なんなら、なぜ急にわたしがそのようなことをしたのか理解に苦しんでいるようだった。胸の底になにか苦い、冷気のようなものが入ってきた。すっと頭を冷やされるような感覚。

そうか、これからはそれとともにずっと生きていかなければいけないのか。なにが間違っていたのか全くわからないけれど。

少なくとも、朝食に凝るのはやめよう。

一年がたち、揃えられるはずのお皿たちが一枚一枚欠けていき、器を揃える楽しみはこの生活にはない、ということがわかった。その時感じていた冷たさが、気持ちが通うことのないさみしさであるということは、その数年後になるまでわからなかった。

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