【あらすじ】 高校時代の夏、美しい彼女を「お前なんか大嫌いだ」と突き落とした。 しかし、その彼女に関する記憶は、全て僕の中のどこかへ消えてしまう。 そんな僕の前に現れた、百合花。 美しい彼女と共に過ごしているうち恋をするが、百合花は死んだはずの彼女だった。 そして、彼女に触れることも出来ず、崇めていたこと。彼女が父親から性的暴行を受けていたことを思い出す。 しかし記憶が戻り、今目の前にいる彼女は妄想の中の人間であったと気づく。 遂に二人で飛び降り自殺しようと考えるが、彼
村。 山、草、土の臭い、何もない空。 バスから降りた時の感想はそれだけだった。 出戻りの母親は苦虫を嚙み潰したような表情で、俺はそれを「めんどくさ」と思いながら見て見ぬふりをしていた。 「おーい」 この声は、きっと祖父だ。 少し離れたところに車が停まっており、窓から手だけを出して振っていた。 その不精さが、なんだか今はありがたい。 それに、けたたましいセミの声や暑さから一刻も早く逃れたい。早く車に乗せてほしい。そんなことを思った。 いやしかし、これからずっと、こんな環境
おかしい。 体が床にへばりついて、うまく動くことができない。起きても起きても酷い眠気が襲ってくる。 前にもこんなことがあった、確か……インフルエンザに罹った時だ。あの時に似ている。床を這いずって用を足し、そのままトイレで震えながら寝込んだ覚えがある。 午前中、最後の別れも含めてマキちゃん先生の所へ寄った。そこで処方された薬を飲んで……そうだ。その薬を飲んだ。薬剤師の人から新しい薬の説明があったが聞き流してしまった。 今一度処方薬の紙を見ようとするが、あまりに酷い体の気怠さ
「朝焼けってなんかセンチメンタルにならへん?」 「はあ?何か窓開けたら草っぽいにおいがするだけやわ。」 「ラジオ体操したの思い出すよな。」 「ハンコ係やのにハンコ持ってなかったお前が偉そうに言うなや。」 はあ、とうるさそうにして間をとられた。 飲みかけのぬるい缶チューハイを流し込んで、「まずっ」と呟いてから横に座ってくる。 あの頃からずっと、いつだってこんな感じの奴やねんなお前は。 「いつ死ぬ?」 「いつでもええで。でも昼間には死にたくない。」 「まあ、あっついからな。」
「ちゃう、さっきからちゃうって言うてるやん。」 夕暮れの、酷く赤い空。逆光。 アスファルトの暑さが手のひらに滲む。 めり込んだ砂利やごみがかすかに痛みをもたらしてくることで、現実を認知する。 どこからか、子どもの悲鳴が聞こえてくる。多分、親に怒られてヒスってる。 「別に責めてるわけじゃないて。こっちもさっきからそう言うとる。好きとか愛してるとかはもういらん。必要かどうか聞いてんねん。なあ」 君の真っ白な手が、夕暮れに染まっていた。 その手は、さっきまで喉から手が出るほど
「しっかりして、碓氷さん」 遠くでマキちゃん先生の声が聞こえた。耳の中が波打っているかのような感覚で覆われていた。 僕は、僕は……相沢百合花は死んだと思っていた。思っていたからこそ、何年か寝たきりになっていたのだろう。 茉莉花なんかに執着して、僕の理想を蹴散らした彼女への罰だと思って。 そして、記憶は消えた。 百合の花束と一緒に「おめでとう」と祝わせてくれていれば、長年あんな寂しい部屋にいずにすんだのに。なんて今でも思ってしまうなんて。 けれどそれが馬鹿げたことだと気
「ね、碓氷君。いい夏だったわ。本当にありがとう」 ずっと楽しそうだった相沢百合花が、遂にそう言って、金色のシールを僕に手渡した。 憔悴していく僕を見ながら、もう少し、もう少しの夏休みを、と。 彼女なら、絶対にそう思っていたに違いない。 僕は静かに頷いた。 どんなお咎めを受けようとも、もうこれ以上一緒にはいられなかった。 本当は、崇拝していた彼女が僕なんかの側にいることが土台無理だった。 彼女を「普通」の女の子にしてはいけなかった。 神様は、神様のままで良かった。
相沢さんは、悲しそうな顔をしていた。 本当はもっと複雑な表情なんだろうけれど、僕の語彙力はこんなもんだ。 さて。 僕はすくっと立ち上がる。 「ごめんね、相沢さん。足の裏怪我したでしょう」 「……コンクリート続きだったから、そうでもないわ」 「とりあえず、僕の家に行こう。他に行くところもないし。さっきの僕みたいにこっそり入れると思う」 裸足と乱れた寝巻きを指差して、テキパキと僕は今後の事を考える。 相沢さんは、もう家に帰れないだろう。 なら、選択肢は一つだった。
「家に来て」 僕の汗ばんだ腕に絡みつく指が、未だに離れない。僕は首を縦にも横にも振ることができなかった。 「ううん……まだ早かったわよね、ごめんなさい。もう少し距離が縮まったら、来てくれる?」 ようやく首を縦に振る。 それから少し口ごもってから「じゃあ、僕、早く家に帰らなきゃならないから」と早口で言ってするりと彼女の指から逃れて急いで階段を駆け下りた。 いつまでも、彼女の絡みつく指の感触が追いかけてきて、僕は死にそうになりながらも家路を走った。 走っていなければ、
「うすいくん」 “碓氷君” 声が重なった気がして、僕はハッと顔を上げた。 重たいクーラーの音、鼻孔をくすぐる百合の花の香り。目の前には長い髪の、美しい彼女。 気づけば部屋は暗く、夕陽の残り陽に消え行ってしまいそうな彼女を見つめた。 「どうして」 「うん」 「どうして、相沢さんがここに」 僕は思い出していた。その後起こったことも、何もかもを思い出していた。 どうして、どうして。思わず床にへたり込む。そしてその床に擦り付けるように、胃液と共に疑問の言葉が吐き出される
「碓氷君、家に来ない?」 それは唐突で尚且つ恐ろしい僕への投げかけだった。 いつもの屋上で、さらりと彼女の長い髪が風に舞う。 俯いていた横顔が露わになる。 けれど彼女の表情はとても強張っており、いつになく真剣に見えた。 勿論僕はこんな質問で彼女の体を弄ぶなどという妄想はできない。 健康な高校生男子ならこんな質問、容易く頭を縦に振るだろう。 相手が相沢さんともなろうと縦ノリも余裕綽々だ。 「どうして?」 「話があるのよ」 「ここではできない話?」 「当たり前じゃない」
「碓氷君、おはよう」 僕は思わずその場で立ち尽くした。屋上に置き去りにしてしまった次の日も相沢さんは挨拶をしてきた。 まるで昨日のことなどなかったかのような微笑みだった。 唇を歪めたような挨拶でもしてくれれば僕としてはありがたかったのだが、彼女はそういう人間ではなかった。 「おはよう、ございます」 「え、碓氷君?前髪切ったの?」 「あ、うん、まあ」 周囲の人は何故か驚いた顔でそう訪ね……いや、あまりにも僕が貧相な顔をしているから驚いているんだろう。それに愛想よくす
鍵を渡してから毎日、僕は扉の前に立った。渡したその日にはあまりの緊張で来ることができなかったが、それ以降は毎日扉の向こう側に相沢さんがいないか確認することが辞められなかった。 放課後、今日も彼女が教室を後にしてからきっかり十五分後に階段を登る。屋上は三階の、机が乱雑に積まれたスペースの向こう側にあった。廊下の端、美術室の横にあるおかげで近づく者は誰もいない。 美術部には申し訳ないが、何年も前に廃部になったらしく僕にとってはありがたい事この上なかった。 そのスペースに近づ
「一架くん、これってさ、どうやって解くの?」 数学の問題を解いていると、今日も高野さんに話しかけられる。僕は一人でいる方が断然好きなのだが、円満な一年間を過ごすには彼女を無視することができなかった。 「それ、僕も分からなかった。ごめん」 今日は数学のミニテストがあるということで、高野さんはノートを持って僕の横に屈みこんでガリガリと問題を解き始めた。 ふんわりと高野さんのいい匂いがする。けれど、僕はやっぱりときめいたりは出来なかった。 人間なら美しいものを見ていたい
掲示板を見た瞬間、僕はもう死んでもいいとさえ思った。 いや、嘘だ。これから一年は確実に、死ぬことなんかできない。 ああ、生き死にさえ僕は彼女に支配されている。 出席番号一番、相沢百合花。その横に並ぶ出席番号二番、碓氷一架。 彼女の名前の横に僕の名前があって、それは高校生活最終学年にして同じクラスだということを意味しており、いや、そもそも名前が並ぶなどという暴挙が許されてもいいのだろうか。 入学式で彼女・相沢百合花に一目惚れしてからというもの、僕は彼女になんのアプローチ
「一架君、これってさー……」 次の日の昼休み、友人に勉強を教えている途中での事だった。次の数学でミニテストがあるということで、クラスではちょっとした勉強会があちらこちらで開かれている。 そんな中また高野さんが碓氷君に話しかけている、しかも今日は昨日と違って下の名前で呼んでいる。 いつの間にそんなに進展したんだろう、昨日上手く溶かしたはずのイライラが蘇ってくる。 「相沢ちゃんありがと、ここからは一人で頑張る!!」 「そっか、じゃあこの問題からもう一回頑張ってみて」