教育と入試の改革をめぐって~物江潤『入試改革はなぜ狂って見えるか』を読んで

物江潤『入試改革はなぜ狂って見えるか』は、個別指導塾を経営している著者が現場を知る(高校生が身近にいる、入学試験に詳しい)立場から、教育と入試の改革について書いた本です。

この本は、いろいろなことを指摘しているのですが、概略、

1 文科省や審議会は現場の声を拾い上げようとしているが、現場から見るとそれがなされているように見えないのが不思議。

2 教育をどうすべきかについて、有識者の会議では、理念を持ったさまざまな意見が出て、それを無理にまとめようとする。

3 すると提言は抽象的で不明瞭な「立派なもの」になる。

4 それを具体化しようとする段階で無理が生じる。

5 特に入学試験に無理が生じる。

というようなことを言っています。

入試改革が迷走する原因は、上記のように理念と現実のレベルのすりあわせの部分でうまくいかないことと、教育の問題がいつの間にか入試の改革に焦点があたってしまう(入試に過大な期待が寄せられる)ところにあると思われます。

根本的な問題としては、

●教育はどのようなものであるべきか。

ということがあるのですが、

どんな教育がいい教育なのかは「思想」の問題なので正解はありません。(人によって考え方が違うので。)

一方で、多くの人に関わることだから、みんなが納得できるような正解を出したいと思うわけです。

そこに矛盾が生じるというようなことを、この本では言っています。(みんなが納得するようなことはあり得ないということですね。)

●生きるのに必要な力を教育で身につけさせることができるのか。

という問題もあります。

議論されてきた学力の3要素は

①知識・技能、②思考力・判断力・表現力、③主体性をもって多様な人々と共同して学ぶ態度

なのですが、

(ここは、物江さんの本を離れて)私見によれば、知識は教えられますし、思考力は育むことはできるかもしれませんが、「主体性をもって多様な人々と共同して学ぶ態度」を教えたり、育んだりするのはなかなか難しいと思います。(アクティブラーンニングやディスカッションなどを授業でやれば、それが育つというのは、楽観的な意見だと感じます。何よりも個人の意識の問題だからです。)

●生きるのに必要な力をテストではかることができるのか。

という問題もあります。

仮に、幾多の困難を乗り越えて、教育の現場で上記の①~③を涵養することができたとして、それを入試ではかることができるのか、という問題です。

これまた、私見も交えてまとめておくと、

「①知識・技能」は、これまでもはかってきました。(単純な知識なら、クイズのような問題ではかれます。)

「②思考力・判断力・表現力」は、入試の中心になってきた事柄です。質の高い問題は、ある程度の基礎知識をもとにして、それに思考力を組み合わせて解くようにしてあるはずです。マークシートであっても、ある程度は、思考力もはかっているはずです。それで足りない部分は、国公立大学であれば、大学の個別試験(二次試験)ではかってきました。

「③主体性をもって多様な人々と共同して学ぶ態度」は、ペーパーテストでは、はかるのが難しいです。よって、高校が作成する調査書や面接等により学力以外を積極的に評価していこうという方針がとられました。

こういう整理をすると、2010年代の入試改革論議は、「②思考力・判断力・表現力」を、大学の個別試験(二次試験)などではなく、共通テストではかりたい、という改革であったという見方も可能です。

だからこそ、共通テスト国語に記述問題を導入などと言ったわけですし、英語に関しては、単なる知識ではなく実践力を求めるという声が多かったため、民間テストの導入などということを言ったのではないでしょうか。(国語・英語ともに、教育産業への配慮もあったかもしれません。この辺りは政治的な問題です。)

でも、共通テストでは知識+ある程度の思考力をはかり、大学の個別試験で(共通テストでははかれないような)思考力や表現力をはかる、というのでは、いけなかったのでしょうか。

この本では、ペーパーテストで問えることには、いろいろな理由から限界があることも書いてあります。しかし、それは昔からそうであり、今後もそうだと思います。むしろ、少し問題を変えればすべてがうまくいくというような幻想を持たないほうが、現実的な対処ができるということをこの本では言っているように思います。

『入試改革は・・・』で、本筋とは別に留意しておきたいと思ったことをいくつか。

岡部恒治ほか編『分数ができない大学生―21世紀の日本が危ない』東洋経済新報社 という本で、「トップ校でも2割の学生は分数ができない」と言っていたけれども、これは正確ではない結論だと言っています。(出題した5問全てを正当できた大学生が8割だったため、2割の学生は分数ができないとしたもの。)(p.8辺り)

東京都立大のAO入試は、かなり綿密に行われているとのことです。一方、ずさんなAO入試をしているところもあると言います。(p.80辺り)

神保哲生・宮台真司ほか『教育をめぐる虚構と真実』春秋社によれば、国民には『分数ができない大学生』という本を示し、政治家や財界人には学術的な体裁のレポートを見せることによって、文科省の失策をアピールするといったネガティブキャンペーンを、経済産業省が展開していたのだ、と書いてあります。これは、科学技術振興(産業政策)の主導権を経産省が握るため画策された情報戦に、文科省は負けてしまったということなのだと書いてあります。(引用をもとに記述されているので、私には執筆者のうち、誰がどのように述べたのかはわかりません。)(p.90辺り)

他に・・・

塾で教えている経験から、引きこもり、発達障害の場合には、多面的な力をはかるというのは、酷な話と言っています。(コミュニケーション能力を持ち出されたら、評価の面で著しく損してしまう・・・。)これは多面的な力をはかると言うことが疑いなく正しいことだと思ってしまうのもどうなんだろうか、という視点ですね。例えば、他の人とコミュニケーションはあまりうまく取れないけれども圧倒的にすごい才能を持っているということがあったとして、それをちゃんと評価できるのか、という問題です。また、知能指数などにおける境界領域の場合、知識・思考力をはかられるのは、本人にとって苦痛と言っています。(p.162以下)

もちろん、一般的な教育の理念やテストの改革を扱うのとは違った話ですが、教育を論ずるどこかの審議会でそのような議論が行われたということはあまりないのではないでしょうか。

おそらく、教育の問題はすべての人の問題なのに、いつの間にか、優秀な人材をどうやって選抜するかという、スクリーニングの話に偏ってしまう、という論点を扱っているのだと思います。言い換えれば、そういうことが見過ごされているのではないか、という指摘を物江さんはしているのだと思います。


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