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「そっちこそどうなんだ主義」について

先日、Twitterのタイムラインを眺めてたら、「漫画の些細な女性差別かもしれない描写を批判している人は、映画監督のセクハラとかウクライナの戦争での性暴力とかにもきちんと反対の声を上げてるんですよね?」というツイートをしている人がいました。

これは、典型的な「そっちこそどうなんだ主義(Whataboutism)」という間違いと言えます。

そっちこそどうなんだ主義の何が間違っているか

なんでこれが間違っているかといえば、まず

  • 他に重大な社会問題が起きているからといって、別の社会問題に対処しなくていいということにはならない

ということが挙げられます。

つまり、ウクライナでの性暴力、映画監督のセクハラ、ある漫画の性差別かもしれない描写は、それぞれ別個の問題ですから、別々に差別によって抑圧されている人がいるわけで、そのどれもが対処すべき問題なのです。

そしてさらに言えば

  • 批判された人たちが対処すべき問題と、対処できない問題は同一には扱えない

という問題があります。

ウクライナでの性暴力も、映画監督のセクハラも、たしかに酷い問題ですが、少なくとも私たち日本に住んでいる人が直接的にどうこうできる問題ではありません。

ですが、漫画の性差別かもしれない描写については、それを消費する私たちが考えるべき問題と言えるわけですから、ウクライナでの性暴力や映画監督の性暴力と比較して程度が浅いからと言って、私たちが考えることを逃げられるわけではないのです。

また、こういう論法がまかり通るなら

  • この世のすべての社会問題に声を上げてからしか何も言えなくなる

という問題もあります。

これは実際、ウクライナでの戦争を批判する声に浴びせられている言葉なんですが、ウクライナでの戦争を批判すると「でもアメリカだってアフガニスタンやイラクでさんざんひどいことやってきたじゃないか」と批判されたり、「アフリカではもっと重要な人道危機が頻繁に起きているのに、お前たちは何も声を上げてこなかった」という反論が、ロシアの支持者から上がっていたりします。

ですが、そういった声がまかり通るなら、極論、世界すべての場所で起きる人道危機を逐一見張って、それに対して常に声を上げ続けるという、普通の一般人には無理なことを強いることになります。

そうなれば、多くの人はそんなことできませんから、結局何も言えず沈黙するしかありません。そうなれば、戦争を起こしても何も批判されず、ただ暴力がまかりとおる、そんな世の中となってしまいます。

なぜ人々にとって「そっちこそどうなんだ主義」が説得力を持ってしまうか

このように、「そっちこそどうなんだ主義」は、間違いだらけの論法なのですが、しかし実際はこういった論法に騙される人が数多くいます。

実際、僕がこのツイートを見たきっかけも、僕がTwitterでフォローしているあるフリーライターが、このツイートをRTしていたからです。その人はVTuberとかにとても詳しくて面白い記事を書いていいなと思っていたのですが、こういうツイートをRTしてしまうわけです(そしてそれを見て僕はそっとフォローを外しました)。

では、なんで多くの人にこういうツイートが説得力を持つかと言えば、端的に言えば、「社会問題に対して声を上げる人」というのは

  • 社会全体を良くしようとする聖人

でなければならないという強迫観念が、人々に植え付けられているからではないかと、僕は考えるわけです。

つまり、「社会問題に対して声を上げる人」は、自分のことを犠牲にしてでも、社会全体で苦しんでいる人のために奉仕する、そんな存在でなければならないと、思われているわけです。

実際、そういった「社会問題に対して声を上げる人」に対してのイメージを聞くと、多くの人は、そういう聖人像を持っていると回答します。

「そっちこそどうなんだ主義」に騙される人の多くは、こういうイメージを持っているからこそ、そのイメージとかけ離れた、社会の一部の人の権利だけ主張しているように見える人を見ると、嫌悪感を抱き、「ちゃんと社会全体を等しく救え」と主張するわけですね。

ところが、実はこれ、間違ってるんですね。

「社会問題に声を上げる人」はワガママだし、そうであっていい

「社会問題に声を上げる人」というのは、むしろそのような「社会全体による個の抑圧」というものに反対する人なんです。

より噛み砕いて言えば、「社会全体を良くしようとする聖人」なんかではなく

  • 社会に負担を強いてでも、自分たちのワガママを主張する人

なんです。

そう聞くと、多くの人は嫌悪感を抱くでしょう。私たちには「社会のためになにかしなきゃならない」「社会のために自分のワガママは抑えなくてはならない」という気持ちがこびりついています。

しかし、このような考えは「全体主義」とよばれ、そして、それこそがまさに、昔のナチスや、今のロシアのような人権を抑圧する国家を生み出したんですね。

そしてそういった歴史への反省のもとに、「社会に抑圧されず、自分たちのワガママをきちんと言おう」とするのが、「社会問題に声を上げる人」であり、社会運動なんです。

そして、みんながそれぞれ自由に自分のワガママを言っていく中で、ワガママ同士の均衡点をどこにするか話していけるのが、全体主義ではない、健全な民主主義社会なのです。

こういったことについて詳しく知りたい人は、『みんなの「わがまま」入門』という本がとてもよいので、それをおすすめします。

以上のような考え方を持つと、冒頭に上げたツイートのような「そっちこそどうなんだ主義」がなぜ間違っているか、よりわかりやすくなるのではないでしょうか。

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