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おとなしい顔した不良でいたいはなし

マツザキです。
いまわたしにはありがたいことにたくさんの生徒さんがいます。ほとんどがはじめてピアノを弾くちいさい子たち。この子たちに、なにを伝えられるだろう?と葛藤しながらつづけているピアノ講師も、3年目が終わろうとしています。

あるとき、16部音符の速いフレーズが弾けない、と困っている生徒さんがいました。よく弾けるしあたまも良くて、わたしが伝えたことをよく理解しようとしてくれる生徒さんです(ここではAさんとしましょうか)。
普通なら、指を動かすとか、手を丸くするとか、そういうことを言ったら良いのでしょうけど、何を考えたかそのときわたしは「真面目にみえる不良だと思って弾いてみようか」といいました。われながら意味不明です。
しかしAさんはわたしの真意を汲み取り、さっきまで弾けない、と思ってたフレーズを難なく弾いてみせました。あっぱれ。でも何回か弾いてもらうとすこし崩れる。「それだと不良が丸出しだわ」「それはまじめになっちゃった、ガリ勉て感じ」ゲラゲラ笑ってくれましたが、なんとなく言いたいことは伝わったようです。

ようするに、弾くという行為の主体はあたま、考えることだと伝えようとしたのです。あたまのつくりが変われば、おのずと出てくる音楽も変わってくる。
これはわたしが歴代習った、本当に尊敬する先生たちがおっしゃっていたこと。弾くときに大事なのはイメージで、それをつくりだすのはあたまなのだから、結局のところ手、まして指なんて末端器官にすぎないのです。

たとえば、わたし自身のレッスンで「無声映画のような」と言われたことがあります。
ここで一瞬のうちにイメージをつくりだす、それが音楽家の仕事です。
そのとき浮かんだのは、たとえば「大きなベッド。シーツにくるまるブロンドの女。そこにはすこし前まで別のひとがいた形跡があるけども、いまはいない。シーツを爪でたぐり寄せる女。顔にはやるせなさ。フロアに落ちている吸い殻のカット。変わって女の背中のカット。左横から徐々に女の顔にズームインして、止まった瞬間に左目から涙が落ちる」など。これはモノクロで、あるあるなフランス映画「ぽい」イメージです。
ここまでくると変態みがすごいのですが、こういうイメージがつくれると、音に現実味がでてきます。そして、楽しい。さっきまでぼやけてた音が、キュッと引き締まります。
これはもちろん作曲者のイメージと同一なわけがないし、作曲家はその曲にもっと楽しげな、もしくは凄惨なイメージを抱いていたかもしれない。でも、そのイメージはひとりひとりちがっていいとわたしは思います。だからこそ演奏家ひとりひとりの演奏はちがうのだし、あるいは同じ演奏家だってイメージが変わってくれば演奏は変化するというものです。

手の訓練は、ある程度までは必須です。それは間違いないでしょう。でも25もすぎたわたしの技術は下降線をたどる一方、もともと技術にすぐれた演奏者でもないので、それだけでなんとかできるわけもありません。
ただし衰えようと、学ぶことはできます。学ぶ、と書くと真面目な感じですが、ようするに本を読んだり映画を見たり、演劇をみたり、美術展にいったり、あるいはよく知らない音楽を聴いたりなどする、ということです。
わたしは残念ながら読書が好きなたちではないようです。よくないなと思いつつ、読書量はすごく少ない。でもわりと映画は好きで、だからわたしのイメージは映画のワンシーンで考えるとすんなりいろいろなアイデアが浮かびます。

ここで「真面目な顔した不良」になりたいねという話に戻ります。内心までまじめちゃんになってしまうと、なかなかそんなイメージ出てこないし、かたくなになってしまう。わたしもかつてさんざん「バカまじめ」と呼ばれた身ですから、まだまだ不良にはなりきれません。
でも「真面目な顔した不良」も「不良のなりした真面目」も紙一重かもしれません。とにかく、凝り固まったあたまとからだでは、音楽はできないなあと切実に思うのです。

いつも心に寺山修司を、といったところでしょうか。とはいえ、わたしは彼の戯曲は恥ずかしながらこの歳になってようやく、読み始めたところなのですが。いや〜寺山修司は良いです。良すぎます。わたしはまたたく間にその魅力に堕ちてしまいました。
読んだことのない方、ひとまず『毛皮のマリー』『青森県のせむし男』あたりから始めてみてはいかがでしょう。きっとすぐに堕ちてしまうはず、です。

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