シャーロック・ホームズの孤独と病理診断科を語らう書

約2か月に及ぶ病理診断科ローテを終えた。
Twitterでも記したとおりだが、この期間で手術検体と生検を合わせて30強程度の診断を行った。
全くもって遅い&少ないことこの上ない。
1人前の病理診断科になるならば年間2000例は最低限必要だ。自分は年間180例ペース。論外。
最低でも2か月で160例はいけたらよかったのに・・・。

と後ろ向きな話から始めてしまったが、しかしそもそもまともに「病理診断」というものを真正面から行ったのはこれが初めてだった。
いかんせん顕微鏡を眺めても果たして病理レポートには何をどのように書けばいいのかなんて全く分からないところからスタートしたのだ。
もう少し頑張れたのではなかろうかとは思うが、まぁスタートは切れたわけである。
病理の部屋で黙々と顕微鏡に向き合い、取扱い規約や腫瘍病理鑑別診断アトラスやWHO classificationやAFIPアトラスなどを引っ張り出してはうんうん唸りながら、弊院のこれまでの病理レポートや検体も探し出しては参考にして・・・ととても充実した日々であった。
いやもう、求められる知識の膨大さにはただただ圧倒されるばかりである。何せ相手は全身の臓器、そしてありとあらゆる疾患群である。いや、時によっては疾患というにもはばかられる程度の「反応性病変」なんかも含まれるわけだ。
もう分からないことばかりで、四六時中調べ物をしては標本を眺め、よく分からず指導医の先生に質問をするの繰り返し。
そして指導医の先生がこれまた当意即妙に返答してくれる。圧巻である。
昨今のハイポ・ハイパー論争で病理はハイポに必ず組み込まれる。確かに肉体労働は無い、日付を回るほどの残業が日常なんてこともない(多分。いや、もしかしたらそういう病理診断科もあるのかもしれないが)、だがしかし、ハイポという甘い響きに惹かれて病理診断科の扉を叩くのは絶対にやめた方が良い。頭脳労働に関してははるかにハイパーだ。全身臓器のあらゆる性状・正常・異常に関してかたや症候学かたや形態解剖学かたや組織学かたや病理学かたや分子病理学、さらには治療の側面(これは手術も薬物的治療も含む)まで把握していなければならない。しかも深く正確に、縦の繋がりのみならず横の繋がりも。そしてこれらは全て日進月歩で進んでいく。
「悪性所見を認めません」
病理レポートに何気なく記載されているこの一文、外科や内科ローテの際には「はいはい、よかったよかった、あざーす」的な感じで流していたが、いざ自分がその一文を書く側に回った際、その重みに気づかされた。
一瞬目に引っかかったそのN/C比が大きくなったその細胞は本当に腫瘍ではないのか?炎症性変化として解釈してよいのか?中皮細胞の単なる形態変化で大丈夫か?リンパ節に何もないのか?
実臨床のB to Cとは違う、B to Bの世界で確と患者の命を背負っているのだ。

こんなサイトを先ほど見つけた。
皆さんご存じヤンデル先生こと市原先生が書かれた病理診断科紹介である。
面白かった。いや、もう、共感の嵐である。
A・RA・SHI A・RA・SHI Oh Yea!

安楽椅子探偵、まさしくといった感じである。
マイナビの絵に引っ張られてシャーロック・ホームズが思い浮かんだ。
(しかし今こうして文章を記していて思うのだが、シャーロック・ホームズは結構行動派の探偵だ。真に安楽椅子探偵を浮かべるならミス・マープルの方がよいかも。でも緋色の研究とかでは安楽椅子探偵の気を感じるわけだしよいだろう。ちなみに私はエルキュール・ポアロの方が好きだ、どうでもよいが)
人間としては問題があるが天才、卓越した観察眼で得た所見を脳内で組み合わせて真実に迫るその姿は憧れすら超えてしまう。
だが、個人的にはここに引っかかる。私がポアロの方が好きな理由もそこにある。
彼は優れている、優れすぎている。圧倒的な天才なのだ。
そして天才とは孤独なのだ。
ワトソンはいる、だがそれでもワトソンが見ている世界とホームズが見ている世界は恐らく驚くほどに異なる。だからホームズは真実を見抜く。
私はあまりホームズに明るくない故、彼がこうした「天才ゆえの孤独」に対してどういう割り切り方をしていたのかは知らない。
病理診断科の医師が天才だと言いたいのではない、だが見ている世界が実臨床で粉骨砕身している医師とは異なるのは事実だ。そしてその数的差からも分かる通り病理診断科は孤独だ。
例えば放射線診断科も似た側面はあるが、しかし個人的にはあちらの方が実臨床には近い。理由の一つは、(日本においては)CTやMRIの存在の身近さだろう。結構気軽に検査をオーダーする、しかも何度も。それ故接点は多い。しかし病理検査はそうではない。検査には侵襲性が加わる、そして気軽に何度も出来るものでは無い。しかもそれを必要とする科は意外と決まっている故、接点は少なくなる。更に言うと、放射線診断科が読影する画像は実臨床で各科の医師も気軽に読む。場合によっては放射線診断科よりも深く読んでいることだってある。が、病理はそうではない。何なら顕微鏡を眺めるのを嫌う医師の方が多かったりするのではなかろうか。やはり病理は孤独だ。

私は病理診断科が好きだ。
この2か月でより実感した。
だが、初期研修をする中で実臨床もやはり好きだと思った。
3年目から病理の道に進んだとして、あの孤独に私は耐えられるのだろうか。自分はあまり積極的に誰彼と話す人間ではないにせよそれでも友人だったり同期だったり先輩だったりと何気ない会話をいろんな場面でするのは好きだ。物理的な孤独と医療現場での孤独。
これをいい意味での孤高に私は出来るだけの人間なのか。
私の人間強度はいかほどなのだろうか。
阿良々木君に尋ねてみたい。

3年目の進路は未だ定まらず。
思考の放棄すらしたい。勿論、しないが。
しかし大変困っているのである。

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