草枕を語らう書
夏目漱石氏が著した『草枕』を中学生の頃から大変好んでおり、今でもしばしば読んでいます。
この名文から始まる本書、読んだことはなくともこの冒頭は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。
青年画家がとある山奥の温泉に逗留の為に訪れ、そこで様々な人と触れ合いながら「非人情」という彼の哲学と、彼の追う「画」というものを成熟させていくお話です。
推理小説やSF小説、恋愛小説あるいはライトノベルのような激しいすったもんだや起承転結はなく、ただ穏やかに緩やかに話は進んでいきます。
夏目漱石氏の計り知れない知識と語彙が遺憾無く発揮された作品であり、明治時代に書かれたこともあってはっきり言ってしまうと結構読みにくい一冊ではあります。
ですが、本書に一貫して流れる青年画家の哲学は個人的にはとても納得というかフィットするというか、とても心地良いものです。
いや、中学生という、ある種その人の生き方を形成する上で重要な時期に読んでしまったこともあって、自分が草枕にフィットしたのかもしれません。
上述の始まりの文章は大変有名なものですが、そこだけを切り取ってしまうと厭世的な印象しか受けません。が、本文はこのあとにこう続くのです。
本書は数多の語彙で数多の表現が為されながら青年画家の、世の中や芸術に対する思索が披露されていくのですが、その根幹は恐らくこの冒頭の数行に集約されています。
「この世は碌でもない。でもこの世で生きていかないといけない。ではどうしたらマシになるのか。それを考えるには詩人や画家という視点が大事なのかもね。じゃあそうした人達が作り出す芸術というやつは、どういうものが良いんだろうね」
そんな話が続いていきます。
・・・じゃあ詩人や絵描きになれない人はどうするんだ。そんなことに対しても本文でこんなことが書かれています。
誰でも詩人にはなれるのです。なるのではなくなれる。この違いはとても大きいような気がします。
この世は生きにくいです。本書の青年画家よりも幾分か若い自分でもそう思います。人は1人では生きていけません。誰かと必ず関わっていかないといけない。それは現実でも、そして最近ではインターネットという仮想空間でも。
誰かと関わるというのは、必ず軋轢が不愉快が快楽が生じます。そのジェットコースターにどう己を置いていくのか。そのジェットコースターに乗らざるを得ないのがこの世ですが、しかし同時に乗った自分を一枚の絵の中の出来事だと思って眺めるとこれは意外と面白い。それを本書では「非人情」としています。
個人的にはこの感覚はアドラー心理学にも通ずるところがあるような気がしてなりません。
「非人情」という視点、改めて自分は大事にして生きていきたいです。『草枕』、おすすめの一冊ですので是非ご一読あれ。
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