アマイワナのライブという非日常 2022.2.20@下北沢THREE

細部までとんでもなくこだわって作り上げた世界を覗くんだな

始まる前からステージ上に灯っている、今はなき近未来への憧憬を乗せたネオンライトな、レトロスペクティブな電光掲示板の上を、「I am Amaiwana」という文字が自信たっぷりに流れてゆく。そうか、今から誰かが細部までとんでもなくこだわって作り上げた世界を覗くんだな、と感じて、少し僕らは緊張して、でもそれ以上に期待で胸が高まってく。D Jが合間に流すビートに乗って小躍りしちゃう。

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ステージ上に現れたアマイワナは凄くキュート。多分ステージ上じゃなくても、常に凄くキュートなんだろうけども。これ、「かわいい」とか「美しい」とかっていうよりも「キュート」とか「ファンシー」とかいう言葉が完璧にフィットするんですよね。なんでだろう。日常生活であんまり使わない単語なのに。でもこういうのがアマイワナの魅力の芯の部分を表してるような気もする。キュートって言わずにはいられなくさせる何か。

白っぽいジャズマスターを下げて出てきたアマイワナは60sモード的なサングラスをかけていて、その隣には青いスーツを着たアツムワンダフルが現れる。ピチカートファイブをリアルタイムでは追えなかった僕は、なんだかいきなりちょっと救われる。アイコニックなその画、でもサウンドは全然ピチカートとは違っていて、テクノでエレクトリックでニューウェーブなんだよな、そこ好きなのだ。なんて考えていたら、ライブが始まる。ファッショナブルでありつつ、彼女にとってのほんとうのことを言おうとする楽曲が、ほとんどMCなしで矢継ぎ早に演奏される。長々喋ったりせず、曲で全て伝えようとするアーティストが僕は大好きだし、やっぱりアマイワナもそういうアーティストだったのが嬉しかった。

夢の中にいるような浮遊感

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軽快なリズムで、ここ下北沢THREEからほんの一キロ先にある渋谷の待ち合わせ定番スポットの喧騒を歌う「待ち合わせは渋谷ハチ公前」と、ファズ気味のエフェクトでオーディエンスに語りかけるパフォーマンスが終わると、「Chu!」というナンバーへ。

フリッパーズギターへのアンサーソングとも受け取れるような詞も相まって、アマイワナの作品の中でも特に曲を貫く精神性の部分が90年代っぽいなと僕は思う。エレピの優しい響きが空間を満たす。真夜中にラジオから小さな音で流れてきて、窓の外をぼんやり見つめながらその音に耳を澄ます、みたいな聴き方をしてみたくなる。深夜になぜか目を覚まし、なんとなくつけたテレビから流れてきてほしい、そんな曲。自分がどこにいるか曖昧になって、部屋の闇と自分との境界線がわからなくなるあの感覚。ライブで観ると、暗めの照明と煙とが相まって、もう覚えていないけど見たことがある気がする夢の中にいるような浮遊感。でもその詞にはしっかりと、2020年代の僕らリアリティや苛立ちが組み込まれていて。

わざわざ下北沢に足を運ぶ意味はこれだったのだな

『コリックガール』の、エレクトロなイントロが流れ出す。「真っ当が美しいなんて誰が決めたの 真っ白じゃないことにヘブンがあるの」とアマイワナが歌う。それを目の前で聴く。わざわざ下北沢に足を運ぶ意味はこれだったのだなと、思う。何かが揺さぶられる、少しだけ怖くもなるような、不思議な気持ちになる、澄んだ声のトーン。「真っ白じゃないこと」の「こと」の響き。夢の中の木漏れ日、みたいな、ちょっとエモーショナルな言い方したくなってしまう、そんな響き。

歌や演奏が突出して上手いアーティストもいて、そういう人のライブを観るのはまた違う良さがあるのだけど、世界観を提供できるアーティストは本当に稀有で、アマイワナはそんな稀有な存在の一角だと思う。

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「愛と自由とロックンロール」は、YouTubeに上がっている弾き語りバージョンとは全く違って、真っ直ぐなシューゲイズ的ロックなアレンジ。My Bloody Valentineを彷彿とさせる、ヘビーであると同時に透明度のあるギターの音作りが絶妙で、その上にアマイワナのディスコグラフィの中でもかなり王道めなメロディラインが乗った時の、このやるせない切なさを感じるために来たのだ、今日俺は、と呟く。呟かないけど、ほんとにそう思う。

ついつい写真撮っちゃいたくなる

「上海惑星」。中国語で「一二三四(イー・アー・サン・スー)」とカウントインするのが可愛くて、その後に入ってくるアツムワンダフルとアマイワナのギターの揃った音が、バシッとビートの上で決まってるのがかなり気持ち良い。繰り返されるメロディーに自然と体は動き出し、後半の「眠れずに、眠れずに」の部分の言葉のリズムがそれに追い討ちをかけてくる。心地良いね。上海行ってみたいね。途中でカンフーみたいなコミカルな動きをし始める二人が楽しそうで、ついつい写真撮っちゃいたくなる。ストーリーにあげたくなっちゃう。

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結局は体で感じることが全て

今回、「正しい乙女」が演奏されなかった。多くの人を虜にするであろうキラーチューンで、僕自身がアマイワナの音楽に出会うきっかけとなったこの曲。でも、足りない感じはしない。他の曲の質が高く、しかもそれらを確かな一本の世界観が貫いていて、アマイワナという一つの曲を聴いているような、そんな感覚に陥るからだと思う。

世の中には、平気で嘘ばっかり歌う人がいたり、ポジション取り争いにしか興味がないような人がわんさかいたりする。そんな、感覚の冴えてる人ほど辟易するようなこの時代に、誠実に言葉を選び歌うことで、彼女は凄く真摯に社会と対峙してる。多分そのための方法論としてのレトリックと言葉遊びなのだと思う。大真面目な顔をして暗い詩で世の有り様を嘆くのではなく、ものすごくポジティブなメロディと韻律に乗せて聴き手の側に問いかけてくる。私はこう思うけど、貴方はどうですか、と。それでいて、そんなメッセージを意識しなくとも、ビートに合わせてただただ気持ちよく踊るだけでもよくて、そうやって体で感じることが結局は全てということも彼女はわかっていて。

非日常的でありながら手触りのある確かな扉を開く手軽な方法

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コロナ禍の今、あらゆる祝祭は少なからず制限を受けるし、そもそも中止になってしまうことも多い。それでも繰り返される毎日。みんな若干鬱っぽいし、いくら家にいながらあらゆるコンテンツにアクセスできるようになったとしても、それは本当の意味での体験ではないというのは多くの人が感じてることなんじゃないかな。大好きなはずの音楽や映画だけど、無限とも思えるサブスクリクションの大海を目の前に、時々僕もどうすればいいのかわからなくなってしまう。
そんな中で、マスクをつけてふらっとライブハウスへ行くことは、非日常的でありながら手触りのある確かな扉を開く手軽な方法の一つだと改めて思う。限られた、運命的な出会いや瞬間がそこにはある。スモークが焚かれ、ミュージシャンが鮮やかな光の中に浮かぶ。目の覚めるような言葉を叫んでる。普段感じることのない低音が、骨の真ん中まで響いてくる。イヤホンで聴く音楽とは全然違う、「音楽体験」というものを知る。演奏が終わり、さっきまでステージにいたアーティストと、直接言葉を交わす。帰りの電車の中で、余韻に浸るために、イヤホンをつけたままあえて『恋せよ惑星』の再生ボタンを押さずに車窓の外を眺める。そんな全てをひっくるめた音楽体験を、オリジナリティの塊みたいな世界観で僕らごと包みこんで提示してくれるのがアマイワナってわけなのだ。ライブで見ることの意味があるアーティストだと思う。そしてこれを読んだ貴方が、渋谷ハチ公前で待ち合わせて次回のライブへ足を運んだとしたら、この社会の中に小さな、でも凄く素敵な流れが生まれるような気がする。

文:熊谷慶智


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