文章が書けなくて「もうやだ」って投稿しようと思ったけど5時間かけたら1000字だけ書けた

夢の中で何度も止めたアラームが現実の音であると気づくころには、ゴミの回収もとうに終わっていた。鉛のようなまぶたをようやくのことでこじ開け時計に目をやると、眠る直前の記憶とちょうど同じ形をしていて一瞬混乱した。それでも視野を広く持ってみればその明るさはまるっきり変わっていて、カーテンの隙間からねじこまれた光が一週間生き延びることとなった段ボールの山の上に描く歪な線も時の経過を象徴的に示している。今日も十二時間寝てしまったようだ。

連日の過眠は、心身の疲弊を決して癒さない。疲れはむしろ蓄積していくようであるから困る。余分に寝ているはずなのに起きている時間もずっと眠い。さらには体内の過剰な知覚が不快である。脈打つ力の加減を知らない心臓が内臓を圧迫し、耳の中では鳴りもしないも正弦波がぴいとやかましく、何より無限の語句が飛び交う脳みそが頭蓋骨から溢れんばかりに膨らみ続ける。舞い散る花粉が粘膜を狂わせるせいでそもそも大部分が正常に機能しないというのに、どうでもいい思考の波が次々に押し寄せ作業空間を埋めてしまう。残された小さな小さな隙間を走る電気信号のみで日常をこなす必要があるが、これがあまりにむつかしい。

ただ生きていくことが、暮らしていくことが、もともとどうやら苦手である。世間が当たり前にできているように見えることが、どうしてもうまくやれない。かといって特別秀でた何かを持つわけでもない。努力すらできないのだから、そんなものを持てるわけもない。何もかもから逃げ続けている人生。

自分の存在が他人に作用することも、また大の苦手である。迷惑をかけないこと、邪魔をしないこと、負担にならないことが、あらゆる選択において常に優先される。自分が苦しむことを選ぶほうが余程ましだ。自己犠牲——だが、この自己犠牲はいつも自分本位なそれである。要領の悪さや視野の狭さ、見通しの甘さが災いして、結果的に相手にもストレスを与えてしまう。

世を厭い、誰かを恨むことができたら少しは楽になるのかもしれないが、それが許されるほどにぼくはきっと苦しんでいない。孤独なふりをしながら、多くの人に助けられている。映画を観ることも音楽を聴くことも文学を読むことも、贅沢な行為だと知って知らぬふりで過分に楽しんでいる。あげく言い訳のように自責の念で蓋をして、非難されることさえも拒む。この文がまさにそれである。

今日は「夕方」と呼べる時間も丸々寝て過ごしてしまったから、この文章を書くだけで終わったことになる。脇に目をやれば「やらなければならないこと」が段ボールと一緒に積まれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?