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【舞台 #DOLL2023 終演】ありがとうございましたとあとがき

KUROGOKU produce vol.11『DOLL』 於 王子小劇場
終演いたしました!

まずは、ご来場いただいた皆様、本当にありがとうございました!
気にかけてくださった方、そして、ブロマイドを買ってくださった方、差し入れを下さった方、本当にありがとうございます。ブロマイドが出る人生だと思っていなかったので、びっくりしました。買ってよかったと思っていただける人間になります。約束。

観に来てくださった方がどうしても分かりやすいと思うのですが、気にかけて下さった方、なんだかそういう演劇をやってたらしいと思う方、すべてのあなたに向けて。

『DOLL』は、故・如月小春が40年前に初演を行った、歴史ある戯曲です。同じ寄宿舎の部屋で生活を共にする女子高生5人が、新しい生活のなかで様々な経験をして、ある日突然、一緒に入水自殺をする話です。実際に起きた女子中学生による集団入水による自殺事件を元に執筆した作品となっております。

もう来ないと思っていた女子高生役のこと

私は女子高生の時代などとっくに過ぎていて、大学生、会社員……と肩書きが変わってゆくなかで、女子高生特有の衝動性や、キャッキャウフフとした水色やピンク色の感情は相当に枯れ果てておりました。オーディションを受けておいて、出演が決まった時は、やべえ、大丈夫か!?と思った記憶があります。
でも記憶を辿って、色々な引き出しを開けて引っ掻き回していったら、紺色のスカートも、チョークも、憧れの彼も、やるせない気持ちも、なんか楽しすぎて泣きそうになっちゃうアレとか、全部、確かに存在していたものだったのです。
そして、通り過ぎていたおかげで俯瞰できて、だからこそ再構築して伝えることができたのかなと思っています。黒柳さんの言っていた「大人のDOLL」というのは、こういうところに価値があったのかなあ、など。
結果、私は楽屋でまるで休み時間の教室みたいにはしゃいでしまったし、千秋楽終わりに皆と飲んで、帰るときに卒業式のあとみたいな寂しさにやられちゃったんだ。ごめんなさい。

佐藤いづみちゃんのこと

もう終わったから言うのだけど、本当に、あまりにも共感してしまう役でした。ほぼオートモードで皆に良い顔して、勝手に責任感じて頑張って。なんかできちゃって、できると思われちゃって、でも空回りして落ち込んで、結局感情的になって言いすぎて。
あ~あ、学生時代の私の悪いところじゃーん!詰め合わせセットじゃんね。嫌いでやめたくて、今はちょっとマシだけど(年々マジのポンコツになってるだけなんですけど)、10代の頃とか、21歳の頃とか、酷かったよね~。みたいな。だからいづみ役を貰った時は、まるで見透かされているような気がして、すごく嫌な気持ちになった記憶があります。これは勿論笑うところです。
でもね、今、すっごくいづみ役ができて良かったと思ってるんだ。それは、いづみちゃんが当時の私なんかよりもずっと強くて、もっとまっすぐで、何よりも寄宿舎の4人がいてくれたお陰で、すごく成長できたからかなと思います。
「やりたいことやります。がまんやめます。」
「だから、私、今日から馬鹿です。大大の大馬鹿です。」
いづみちゃんがそう言ってくれたお陰で、皆が、「ほら、いづみ言ってごらんよ」って言って立たせてくれたお陰で、なんだか私まで強くなれたし、自分の中でも確実に変わった瞬間があった。すごく不思議な体験だったな。戯曲や台詞が持つ力を色々なところで感じていたけれど、私はこのシーンでかなり体感していました。個人的に、もうそんな自分なんていい加減やめちゃいたいんだあ~、ってタイミングだったので、馬鹿の紙を持ったシーンはすごく恥ずかしかったけど、清々しかったです。覚悟と解放のシーンでした。届いたかな。
いづみちゃんに共感したというお声もいただいていて、そんな皆さんに少しでも、丸腰で生身のあなたが素敵だという如月小春さんが書いた叫びを、私を通して、伝えて、受け取ってもらえたらなんて、おこがましくも思っていました。本当に本当に、思い入れのある役となりました。きっと私はこれからも、いづみちゃんと生きてゆくのだと思います。いづみちゃんのことが大好き!隙自語しちまいましたネ!

右眼のこと

難しかったー!この役は、色々な事情があり本番の2週間前に急遽いただいた役でした。
今までいただいた役と全く異なる、例えるなら、スポーツや武道の類に似た役でした。共に頑張った右耳役の梨乃ちゃんが、“針に糸を通すような”と表現していたけど、そうそう!他で例えると、バドミントン部時代の、ドライブショットのラリー、絶対落としちゃいけませんみたいな?中学の頃の、リコーダーのテストのヤバい版みたいな?集中の仕方、頭の使い方、今まで演劇でやってきたことと全く異なる役でした。でも、ありきたりですが役者としてすごく成長させていただいたと思います。いわば女子高生たちと対の存在として、社会の目や耳として、無機質で、それでいて威圧感や圧迫感を感じるような、そんな存在になれていたでしょうか。この役を通して、私は数字を覚えるのがすごく苦手だなと思いました。

死にたくならないの?と聞かれたこと

終演後、大学で一緒に演劇をやっていたゆりなに「この芝居をしていて、死にたくならないの?」といった旨の質問をされました。その時は、「死が身近になった」と答えました。そのあとも考えていて、私の結論としては“自分のなかの生と死の距離がすごく近くなったことを自覚した”といった具合でした。まあ大体同じなんだけど、死が近づいたというよりは、生と死はどちらも普遍的に存在していて、その距離感を俯瞰したような気持ちになったという感じかなあ。なので稽古期間中、“死にたい”と能動的になることはなかったのですが、生と死は自分が思っているよりもずっと近くにあって、一瞬一瞬で二手に分かれていて、その一線を越えることはたやすい、それは自分にとってもそうだし、多くの人にとってもそうなのではないか、ということを思っていました。そして近くに存在するからこそ、その一線を越える理由は本人にしか分からないし、本人にも分からないことだって多いにある。ましてや他人なんて、なのです。
そして死にゆくシーンは、本番、照明が付き音響が付き雪が舞い、5人が行進し台詞を紡いでゆき、私自身、毎ステージ、大きすぎるほど心が動いていました。高揚と恐怖と愛と、本当に色々な感情がぐっちゃぐちゃになった、体感したことのない感情。皆さんに、5人はどう映ったかな。私としては、この作品は、絶対に演劇でやらなくてはいけないんだ、と思ったとても大きな要因のシーンでした。

終演の翌朝、仕事に向かう電車のなかで思ったこと

終演翌日、満員の地下鉄に乗っているときにふと、「今の私は、死ななかったいづみちゃんなのかな」と思いました。え、いや、キショい!浸るなよ!キショすぎるよあまりにも!でもそんな風に思ってしまったので、仕方がないです。はーキショ。
でも、そしてそれは、私に限らず皆に言えることなのかもしれないとも。
寄宿舎の5人は色々な思いや苦しみを抱えていました。大人になんかなりたくない、いつだってニコニコ馬鹿みたい、私は一体何が楽しいんだろう?、ものは皆ひとりだ、私には何もできない。稽古を通してずっと思っていたことは、この女の子たちは、何も特別じゃないということ。終演後に友達が、あの子たちに自分を重ねたし、皆、あの頃教室にいた子たちだったと言っていたことが印象的でした。
意志のもとある生と死は、どちらも一瞬一瞬が常に選択で、でも、生きている今は紛れもなく、生を選択した自分です。私も、今日ここまで、生を選択してきました。そんな、いづみちゃんから受け継いだと思えてしまう生を、この先も全うしていきたい。いづみちゃんが、ダサい自分を乗り越えて発した叫びに恥じないように。馬鹿でよくて、大大の大馬鹿でよくて、その代わり、取り繕わずにまっすぐ、素直に生きていこうって思いました。これは終演後にはじめて思ったこと。決意と覚悟の舞台でした。その話もいつか。

みんなのこと

制作をはじめとして、座組の母であった大好きなこのみさんが千秋楽前に投稿してくださったツイートにもあったように、役者陣は本当に、”元気でパワーがあって明るくて真面目で、演劇好きが集まって”いました。一言一句、その通りだなと思います。そんな人たちと芝居が作れたことが本当に幸せでした。皆のことすごく尊敬していた。一緒にいる時間、すごく楽しかったなあ。青春時代をもう一度やらせてもらえたようでした。ありがとう。
そしてスタッフさん、劇場入りしてから関わってくださった方々は、本当にこの作品を愛してくださっていた方ばかりで、何よりすっごく仕事人!格好良かったなぁ…。ものすごく助けていただいたし、頭が上がらないです。ありがとうございました。劇場には、たくさんの人の熱いパワーが宿っていました。だから好きなんだなぁって、再認識できました。

うーん、なんだか、長くなっちゃったね。そうなると思っていたけどね~~~。終わろうかなって思います。

いづみちゃん、右眼、
たくさん成長させていただいた舞台でした。
あなたに届いたらと祈るばかりです。
ぎゅーっと抱きしめて、次へ行きたい。
お芝居で、還元したいです。

Team L 佐藤いづみ役/Team R 右眼役
元山日菜子より、愛をこめて!

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