言われたことと言ったことの重さ
下書きに入れたままだったものをシェアし、投稿が続いてしまっております。
コツコツ毎日、ができなくて、ふーっと言葉を外に出せる日もあれば、出せない日は全然で。
ほとんど修正などしていなくて、そのまま出せる日もあるのに、下書きに閉じ込めてしまう日もある。おかしいね。
昔、あれは二十歳くらいのときだったかな。
偶然、新宿駅で学生時代の先生と再会して、その日そのまま友人を呼び出して先生も他のクラスの担任先生を呼び出してくださって、みんなで飲んだことがあった。
そのとき、先生がああ言った、こう言った、と、それに傷ついた、ひどい!という話が主だったもんだから、呼び出した私としては先生、ごめんなさい。。。と思っていた。
そして、先生が、その言ったことすべてを全然覚えていない、ということに、小さな衝撃を受けていた。
そんなことを思い出したのは、最近実家の家族で集まったときに、大人である子ども達が昔話になったときに、親が同じように言ったことをぜんぜん覚えていなくて、子ども達はかなり覚えていた。
言ったほうがまるで覚えていないこの話は2つとも、言われて悲しかった、傷ついた、嫌だった、っていう話だったと思う。
先生や親にああ言ってもらって背中をおしてもらえた、勇気づけられた、ということも多々あって、それは、案外、言った方も覚えていたりする。
親や先生に言われたことで、いまの自分を誤って認識しているようなことはないだろうか?
囚われてしまっているようなことは、ないだろうか?
だとしたら、もったいない。
言った方は、覚えてないのだから。
覚えてないのは、もちろん時間が経過してしまっているからもあるだろうし、教師であれば生徒の人数を考えたらいちいち覚えてられないこともあるだろうが、単純にそういう意図じゃないから、ということもあるかもしれない。
だとしたら、尚さらもったいない。
親子だと怒りもあったりして、思ってないことがでてきたり、ね。
自分も、そうなのだよなー。
言うほうは忘れちゃって、ひとに傷を残している部分はきっとたくさん、ある。短気だしね。
使う言葉を、丁寧に、
言われた言葉は、言葉尻だけをとらえず、背景を鑑みる。
難しいことだけれど、大人だからできること、だもの。
オリナスの活動をしているときも、どれだけ思ったことか。言葉の裏側にあることに、目を向けなくては、と。
言葉として出てくることは、一部でしかないのだ、と。
大人だから、できること。
なんて言ったけれど、子どもに言われたこともあるなぁー。
小学2年生のときに、カッとなると、殴る蹴る、そして暴言が出ちゃう子がいた。それを受けるのは厳しくない?と息子に聞いたときに、『もうすぐ収まる。カッとなってるだけだから。あの怒りが収えられるようになれば、手も言葉も出なくなるよ』って。実際に、そうだった。
そうだ。
言葉を、言葉のまま、とらえて、傷つくな。
その人が何を思って言ったのか、真意を汲み取れるように。。。
まだまだ、練習中の身です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?