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参詣 参拝 それは誓い!
厚洋さんが逝って800日。三回忌の日から、小さなお仏壇に向かって般若心経をあげるようになった。
ついでと言ったら叱られるが、光明真言も唱える。信仰心というよりも、唱えたら、不思議な気持ちになる。陰陽師にでもなったように、厚洋さんと共に過ごせる気がするからだ。
光明真言(こうみょうしんごん)は、正式名称は不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という密教の真言だそうだ。
真愛の母の家は浄土宗だったが、真愛がお腹が痛くなると
「おん かかか びさん まえい そわか」
と、お腹を摩りながら陀羅尼を唱えてくれた。お地蔵様が守ってくれるのだそうだ。
厚洋さんが入院した時も、お腹を摩りながら早くから教えてもらった「お呪いの言葉」を一生懸命に唱えた。
不思議なことに、厚洋さんの痛みは取れて寝始めてくれた。その響きが摩るのと同化するのかもしれない。
密教ではその神秘性を保つために梵字や陀羅尼を翻訳せずに、そのまま梵音を読誦するのだ。平安時代から光明真言法による加持が修されてきたという。
難しいことは分からないが、
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん(真言宗智山派の場合)
不思議な言葉の響きだ。
それが終わると、
「今日は、原稿の推敲をします。
みねこ先生のお墓参りに行きます。
帰りにプールで泳いでる痩せたいなあ。」
今日やる事を報告する。
厚洋さんが亡くなった直後は、
「拓を守ってください。
あなたの良い話が聞けますように。」
なんて、彼に頼む事が多かった。
あちらの世界で、上手く操っていい方向に向けてくださいってなもんだった。
「宝くじが当たりますように!」
不届き極まりない。
そういえば、一人になってから、お寺や神社に行く事が多くなった。
四柱推命にハマった時もあったので、「箱根,九頭龍神社」や「柏・駒木神社」に行った。「八雲神社」。
極め付けは初めての「お伊勢参り」にも行った。
参拝の方法って言うのも教えてもらい。
その手順でお願いをした。
「心願成就・私は,どこそこの、何何と言います。いつもお見守りありがとうございます。厚洋さんの素敵さをみんなに知らせられますように。」
お寺にもよく行った。
「浅草の浅草寺に初詣」「近くの成願寺、神野寺、高蔵寺」
そこでも、必ず願い事を言った。
ところが最近は、願い事ではなく、「頑張ります。」と誓いの言葉を言うようになっている。
「ねっ。厚洋さん。綺麗になったでしょ。
折角、貴方から貰った素敵な身体。
美と健康を維持します。応援よろしく!」
お寺や神社にお願い事をしに行くのではなく、「誓いを立てに行くのです。」
お願いは、明確なのだがそのために何もしなかったら、他力本願でかないっこない。
夢や願い事をこの手に引き寄せたかったら、その道筋を自分で見つけ、努力しなければならないのだ。
そのために、自分に言い聞かすように
「誓い」を知らせに行くのだと感じている。
遠い未来の大きな夢や近い未来の小さな安全。それら全ては、そうなるための努力があってこそなのだ。
「家内安全」を願っても、「スピード違反で捕まっていては叶わない。」「恋愛成就」を願っても「相手を思いやる心がなければ上手くいかないだろう。」
そして、「願い事」は、身の丈にあったものでなくてはならない。
「7億あたりますように」
真愛が7億当たっても、使い道がない。
真愛は、これ以上食べたいとも思わないし、今の家で十分だし、このままでいいと思っている。(そう言っておいて、当たったら人には言わず、お札の上で寝たりするのかな?)
さて、本題に戻ろう。
参詣・参拝は、自分自身に誓いを立て、神様、仏様に意思表明する機会なのだ。
それは、「先輩のお墓」であってもよい。
それは、「我が家のお仏壇」であっても
それは、「咲いた花」であっても
良いのだと思う。
要するに、自分の生き方は、自分が決定するのだからだ。明日の自分は今日の自分が決めるからだ。
明日こそ、詩の原稿を推敲しなくちゃね。
3回は声に出して読んでみます。
南無〜⁉︎
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります