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句読点

「ずっと使ってきたのに、
 酷いじゃないですか。」
 句点に言葉が話せたらそう訴えるかもしれない。
という書き出しの記事を見たのは、数ヶ月前である。
 その時は、すぐにnoteにかかなければと思っていたが、記事を写真に撮ったら安心してしまったのだが、noteを音声で入力し始め、後の書き直しをしていて「、」が多い事に気がついた。
 それに林修先生の番組で、 
 若者世代はSNSのメッセージで句点を「冷たい」と感じると言う。
「大丈夫です。」のようにつけると。
「マルハラスメント」だとネットで話題になっていた。
 筆者は50代だが、スマホの履歴を確かめたら、若者当てでも普通に句点をつけていた。
 相手の文には一切ない。
 これが世代間ギャップとかショックを受けた。
 日本だけの現象なのか気になったので、欧州や東南アジア、南米の知人に聞いてみた。
 どうやら「句点なし」は、多言語圏にも共通する傾向のようだ。
 20代の英国人女性は、
「メッセージの吹き出しには必要ない。
 送信ボタンを押すのが句点の代わりだ」
と話す。
「句点」が、冷たい,権威的・機嫌が悪いなどの印象は日本と同じ。
 文末は、句点なしか、ダッシュ(ー)が多いと言う。
 感嘆符(!)の文末も20代の女性には好印象だが、10代には圧を感じて不評だとか。
 改まったメールや上司から来たメッセージの返事には、「真剣さや正式な感じを出すため」に句点をつけるそうだ。

 大類雅敏著「句読点面白辞典」に、今から半世紀ほど前の興味深い話があった。
 高名な国語学者が、
《目上の人の絵の手紙で句読点を使うと
 失礼になる》
と説いた。読みやすいようにと指示する行為だからだ失礼になると言うのだ。
 礼儀だとか、失礼だとか毀誉褒貶(きよほうへん)に晒される句点が気の毒になった。
 日々世話になっている。身としてはこれまで通りに使っていこうと思う。
 これは今年の2月の16日の天声人語から。
 若い奴に
「一休さんの話は知らんのか?
 ふたわにしててくびにかける数珠!
 手首にかけるのか、首にかけるのか。
 点がないととんでもない損をするんだぞー」
と言ってやりたい。

 無いよね句読点、、。 
 確かに
 日本できちんとした句読点が使われるようになったのは、明治時代に文部省が日本語表記の基準が作られてからである。
 しかし、江戸時代の初期にはほぼ完成形の「、」「。」があったという。

 山口謠司氏著『 てんまる 日本語に革命をもたらした句読点』には
「ヽ」は奈良時代からあったと…。

「 てんまる」がないと、文章の理解に無理が生まれ、誤解が生じて変な意味になってしまう。
「うみにいるかのたいぐん」
(海にイルカの大群)
(海にいる、蚊の大群)
「ぱんつくった」
(パン、作った)
(パンツ、喰った)
などの文章が例に出ていた。
 一休さんではないが、「パンツ喰ってみろ。」と言ってやりたい。
(まあ、今の日本語は漢字で書くから分かる 
 し、面と向かって話す時に馬鹿な解釈ができ
 るのは賢い噺家しかいないのかな。)
 我が国では、「てんまる」は、漢文を訓読する際の記号として生まれたと聞いたことはある。
「ヽ」の記号が使われた最も古い資料として残っているのは、天平(745)年以前に写された『文選李善(りぜん)注』だそうだ。
〈カタカナ〉が使われた最古の『成実論』にも「、」が使われているという。
 氏は、漢文を和語で解釈していくことが必要となったと同時に「 てんまる」が生まれたとも言えるのではないだろうかと言う。

 鎌倉室町時代になると、仏教が貴族だけではなく庶民にも広がり「念仏」を唱えるために、できるだけ分かりやすく、間違いなくお経を読むということが普及した「・」だそうだ。

厚洋さんの手紙(love letter)には
        句読点がなかった❣️

 きちんとした形で使われるようになるのは、明治時代に学制が敷かれ、文部省が日本語表記の基準を作ってからのこと。
 江戸時代初期には「・」と「。」
 その頃、古活字による印刷を経て、「製版本」が出始めたからだと説明されていた。
 よく分からないが、印刷製本する際に、日本では、金属活字ではなく木を使って彫った「木活字」の「古活字版」の本だったという。
 それまでは、文献というのは「写本」だったらしい。
 後陽成天皇は、この活字を利用して「慶長勅版」と呼ばれる一連の本を出版。
 古活字版が作られたのは、およそ1590年の慶長勅版から、寛永の後の正保(1644〜1648)・慶安(1648〜1652)頃まで。
 写本は、貴族や僧侶など一部の知識人によって伝えられたものです。
 本は江戸初期まで非常に珍しいもので、庶民は簡単に手に入れることができなかったが、古活字版を使う様になり、次第に読者層が広がる。
 しかし、貴族階級と庶民の言葉では、かなり違いがあり、貴族は庶民の言葉が分からず、庶民も貴族の言葉が分からなかった。
 その後、庶民の中から学者が登場し、それまで貴族・僧侶などのみによって伝えられた本文が庶民にも分かるような形になる過程で「・」「。」が使われた様だ。
 浮世絵も木に彫られている。
 かわら版も多くは木に彫られた。

 北原糸子氏の「かわら版のはじまり」の中に
「大坂物語」の下巻の付図が、従来かわら版の始まりといわれてきたものだとは断定はできないとしながらも、
「この物語は、文字としてのみ読まれたもので
 はなく、語りの世界と共有する要素を持って
 いた。
 すべてが五七調ではないが、その文体からし
 て読み聞かせられる物語であった。
 現に「大坂物語」上巻に刻された●印が息継
 ぎ箇所を指示する読点であるのは、そのこと
 をなによりも有力に物語る。」
としている。
 確かに、大阪物語の文末辺りの右下に「・」が書かれている。
 声に出して読むための「読点」だったのだ。

 文章を正しく読み伝えるために生まれて来た「、」「。」なのに、
「冷たいだって?
 権威的・ハラスメント?だって?
 句読点の要らないほどの短い言葉しか
 理解できなくなったお前達が
 馬鹿野郎だろうがー?」
と言いたい。
 ここまで書いて来て、LINEが届いた。
「了解。」と書かずに、にゃんこの😄絵文字を送ってしまった。
 言葉が使えなくなった大馬鹿である。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります