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子育てパニック ごめん!

本当に申し訳ないと思うのだが、何度も繰り返してしまう。
「あっ!大変。ごめんね。ごめん!」
と謝りながら、ホースを持ち急いで水を掛ける1.2.3.4.5...30まで数えて、次に行く。
「雨が降るって言ったのに、降らないじゃん。
 天気予報士は、こんなに毎日外しても首にな
 らないのか?
 可愛かったり、かっこよかったりすれば、外
 しても御免なさいを言わないのか?」
ブツブツと呟きながら水かけをする。

 天気予報を鵜呑みにする私がいけないのか?
 今日も「紫陽花」をクタクタにしてしまった。
 土に下ろしてある紫陽花は元気なのだが、鉢植えの紫陽花は1日水をあげないと葉も花もクタッとしてしまう。

 急いで水を撒く植木鉢から溢れるほどに、
             たっぷりと撒く。
 すると1時間ほどで、復活してくれる。

 人間が勝手に鉢に入れて栽培しているのだから、鉢に入れた人間が責任を持って育てなければいけないのに、水もやらなきゃ肥料も無し、世話もしないのだ。
 紫陽花は、
「出来ないなら、早く土に下ろしてよ。
 綺麗な時だけ見たいなんて
 なんてご都合主義なの!アンタ。」
青くなったり、赤くなったりして怒っていた。
「ごめんね!
 次は、天気予報に頼らず、
 蚊が飛んでても
 紫外線が強くても、
 ちゃんと水をかけるから
 許して?」
 紫陽花は、応えてくれない。

 これでは、
「幼児虐待・えい児遺棄・育児放棄・・・」
と同じではないか。

 懐妊するということは、植物を鉢に入れることだ。
 母体の中で10ヶ月。
 その時から鉢の中では、水分、栄養、手入れを自動で行っている。妊娠して出産するということは偉大なことだ。

 出産して育てるということは、もっと偉大なことだ。
 手動で、「水分・栄養・手入れ・選定・支柱立て・受粉・果断 etc」をするのだ。
 相手は、話、動き、心も有るから、土に下ろすにはまだ早いのに、鉢から出たがったり、「栄養不足、水くれー」と文句を言う。
まあ、言ってくれるうちは、良いかも…。

 鉢に入れた親は、最後まで責任を持たなければいけないのに、それを放棄する者が後を絶たない。

 真愛のように
「ごめんね。待ってて!今すぐやるからね。」
って言うママは結構居ると思う。
 真愛も息子を育てる時はそうだった。
 厚洋さんが沢山手伝ってくれたし、母にも世話になった。
 土に下ろした直後は心配だったが、
 今は、立派に成長してくれている。
 殆ど自力で育ったと思う。(ごめんね。ドジなお母んで。)

 22(日)前に、厚洋さんが亡くなった後、ずっと真愛を支えてくれていた愛猫が逝った。
 彼が亡くなってから、義妹と電話の最後に話すことは
「もうやる事は無いけど、
   ネコがいるから死ねない。」
「ネコのために
 頑張って元気でいなくちゃ!」
と確認し合うことだった。
 我が家の猫歴で一番長く生きてくれたのは、20歳の初代チンチラゴールデンだった。
 だから、4代目アメリカンショートヘアのチャーちゃんも後、10年は元気でいると思っていた。
 チャーちゃんは、10歳で逝った。
 今でも、チャーちゃんの座っていた場所に寝ているように見えることもある。
 ご飯の時間になると「ゴアン!」と言って出てくる気がする。
 家に帰れば、ドアの前で座っていて、ゴロンと横になり「撫でて!」って言う姿が見えるようだ。
 泣いていれば必ず飛んできて慰めてくれる。

 忘れられない姿が、そこ此処に見える。
 話しかけてくれた思いや心を持っていた気がする。
 昨日、ヘアサロンの美樹ちゃんと話した。
 美樹ちゃんも「ムギちゃん」と言う愛猫がいる。美樹ちゃんが切なくなると「ムギちゃん」が来て慰めてくれると言う。
「私の気持ちがわかるんだろうか?」
と言うので、
「絶対に、分かってる。慰めに来ているのね」
と共感した。
「猫でも,犬でも、心を込めて世話をしたら、
 その相手の気持ちが分かるのだと思う。
 動けない花だって、思いを語ったら、きっと 
 話してくれると,私は思う。」
と言うと、
「分かる!それ!
 そこの薔薇の花がね。凄いの。
 頑張って大きくなったね。凄いねって
 言ってたら、ね。凄く大きくなって、
 何時もはうまくいかないのに…。」
と、本当に素晴らしく蕾をたくさん付けている薔薇を指さした。
 どんなものでも、心をかけたら、それに応えてくれるのではないかと思った。
 しかし、独りで生きる様になって、寂しさが募り、孤独を感じる。
 チャーには申し訳ないが、

 可愛いニャンコを見ると「飼いたい!」と思ってしまう。
 チャーちゃんを飼い始めたのも厚洋さんが3代目を交通事故出なくし、ペットロスになりそうだったからだ。(厚洋さん曰く「お前がペットロスになりそう」だった。)
 しかし、「飼いたい!」と思った後、
「ダメ!真愛が死んだら世話する人がいない。」と自分に言い聞かせて辞める。
 真愛が大金持ちで、死んだ後に「愛猫」に遺産を残せるぐらい持っていたら、遺産付きでニャンコを育てて貰えばいいが、そんな事は出来ない。
 話は戻るが、「何かを育てる」ならそれだけの「覚悟」が必要だと思う。
「育てられないならば、鉢植えは買うな。」
「育てられないのならば、鉢に入れるな。」
と言いたい。
 小学校1年生で「朝顔の育ち方」の学習があった。あれは、ただの観察記録を取る学習と考えてはいけない。
「生き物を育てることによって、
【命あるもの】に対する生き方を教える場面なのだ。
 それが、「道徳」なんて独立した教科になるから、哲学がなくなる。
 生き方に気づかせることもなく大人になる。
 だから、快楽に身を委ね、鉢に入れた種は、苗になる前に引き抜かれる。
 運良く発芽し、小さな苗になっても水も貰えず枯れていくのだ。
 それに対して罪悪感も持たない。
 快楽だけで生きてる奴なんて
           バカヤローだ。

 真愛のように
     「ごめんね。待ってて!」
って言いながら、懸命に育ててる多くの人に
ー 万歳だ。ー

 たくさん謝りながら頑張りましょう。
 生命を育てる喜びは、必ず訪れるから。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります